痛みは強さに昇華する。自分で決めた柔道との向き合い方#014 迎里卓
2ヶ月ぶりの更新はこの人。迎里卓さんと話しました。
もともとこのブログはコロナ禍で行動が制限されていた時に「沖縄柔道界のために自分が出来ることは何か?」と考えたのがスタートしたきっかけなのだけど、今回はそんな初心に帰って「沖縄にはこんな柔道家がいるよ」と伝えられたら嬉しいです。
前半は迎里さんの高校、大学時代。
後半は松山東雲女子大学柔道部で監督を務めていた時のことと、今の心境です。
迎里卓(ムカエザト スグル / suguru mukaezato)
1992年7月20日 沖縄生まれ
経歴 白保中学校→那覇西高校→日本体育大学→松山東雲女子大学監督→高校教員
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━━ 先輩とは同じ沖縄県出身の同郷なのですが、初めて話したのは大学生になってからでした。高校時代は同じ沖縄県勢であったものの、僕の母校である沖縄尚学高校と先輩がいた那覇西高校はガチガチのライバル関係で、あまり仲良くするって間柄ではなかったですよね。
迎里:そうだね。お互い別に嫌いではないし、なんなら気のいい奴らだと知っていたのに、なかなか関わる機会がなかった。
━━ 当時、毎年GWは合同練習が恒例だったじゃないですか?確か午前中に練習試合をするんですけど、高校に入学したばかりでイキってた僕は、先輩と試合をして脳天から畳に突き刺さるくらい豪快な大腰で投げられました(笑)。
迎里:懐かしいね(笑)。
━━ 先輩って沖縄尚学からも声かかってたと思うんですけど、那覇西高校に進学を決めた理由はなんだったんですか?
迎里:えっとね、那覇西高校柔道部監督の横田三四郎先生が「父親のつもりで面倒を見るからぜひ来てほしい。沖縄インターハイを一緒に戦おう」って物凄く熱く話してくれて、俺は中学生ながらにこの人の言葉は本物だなと感じたのが一番のきっかけかな。
あと生活の全てを柔道に捧げるというよりは、県立高校で普通にやりたいってマインドも正直あって。まあ入学したら全然普通じゃなかったんだけど、、、。
柔道の厳しさや上下関係は全部高校で学びました(笑)。
━━ 高校時代で印象に残っているエピソードってありますか?
迎里:1個上の先輩たちと出た団体戦全部かな。毎回沖尚と決勝戦をしてたんだけど、新人戦もインターハイ予選も俺が取られて、そのせいでチームを負けさせてしまったから。
当時の団体戦はお互いに勝ったり負けたりの接戦だったじゃん?結果論だけど、俺が負けてなければチームが勝てた状況だったから罪悪感と申し訳なさがいっぱいで、、、。
━━ いつも団体戦は1点差か内容差でしたね。
インターハイ予選は僕も団体メンバーだったので、すごい近くで試合見てたんですけど、チームの勝敗が決まったあと先輩が歩けなくなっていた姿を覚えています。
迎里:そうそう。それで先輩たち、誰も俺のことを責めないわけよ。なんなら励ましてくれてね。すごく優しかった。うん。なんかみんなで励まそうとしてくれているのがすごく伝わってきて、、、。
━━ いい話ですね。
迎里:インターハイ予選が終わってから、俺しばらく落ち込んじゃったんだけど、そしたら先輩たちが遊びに連れ出してくれてさ。
━━ うんうん。
迎里:癒しを求めてペットショップに行ったら、そこで俺がぶち投げられてる新聞が再利用されてて、またメンタルえぐられた(笑)。
━━ 傷口に塩塗られた!!(笑)。
迎里:すごく悔しくて苦しかったけど、先輩たちの優しさで「また頑張ろう、頑張らなくちゃいけない」って思えた出来事だったよ。
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迎里:あと俺、石垣島出身だから那覇西高校に進学するには沖縄本島で一人暮らしをしないといけなくて、入学してからその生活に慣れるまでが本当に大変だった。
それまでは親があたりまえにしてくれていた掃除、洗濯、炊事なんかを全部自分でして、柔道の練習はついていくのに精一杯で、疲れてボロボロになって、家に帰っても話す人がいない。
━━ うわぁ、、、きついですね。15歳でこれはしんどいな。
迎里:親戚のおばさんが沖縄の田舎の方に住んでいたから、週末は世話をやきに来てくれていたんだけど、やっぱりきつかったね。高校では柔道も人間力もかなり鍛えられたと思う。
━━ 親元を離れるにしても寮じゃなくて、一人暮らしっていうのがね。
高校卒業後の進路は日本体育大学に進学されていますが、この経緯は?
迎里:三四郎先生に「お前は絶対に東京の名門でやった方がいい」って話をしてもらって、九州にある大学に行くかも迷ったけど、最終的に日体に決めたって感じかな。もう腹括ってやるしかないと思って、高校のうちに両肩の手術をして大学に備えた。
━━ 入学してからはどうでしたか?
迎里:大学の道場に行ったら、志々目徹さんとか木戸慎二さんとかテレビで見てた人たちがいて「うわ、すげえな」って思ったね。
俺は2軍スタートだったんだけど、とにかくワクワクしてて、柔道がすごく楽しかった。強い選手、名のある選手、日の丸背負ってる選手と練習してもけっこう戦えるじゃん?そういうのが面白くてさ。最初は1軍に上がることを目標にやってた。
━━ いつ1軍に上がったんですか?
迎里:大学1年の冬だったと思う。エリート街頭歩んでる選手からしたら全然遅いんだけど、俺みたいに少しずつ実力をつけて上がっていく下剋上タイプの中では順調な方だったかな。
あの時はハングリー精神マックスだったから、毎日が充実してたよ。
━━ 大学で東京に出てくる人たちって、みんなここで成り上がるぞって目ギラギラしてますもんね。
そういえば、先輩って日体の番付みたいなので1位になってましたよね。
迎里:なったなった。俺以外のランキング1位はみんな有名選手なのに、そこに並ぶ迎里卓って誰だよみたいな(笑)。
試合ではなかなか結果を出せなかったけど、大学柔道が一番楽しかったと思うな。
━━ 本当にすごいと思います。ああ、この人は奮闘してたんだなって感じました。
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━━ 先輩ってコマツ(※)にも行ってたんですよね?
※女子柔道の強豪実業団チーム
迎里:うん、練習相手として行ってたよ。国内主要大会やグランドスラム、世界選手権にも付き人として同行させてもらって、そこでの経験は自分の柔道人生の大きな糧になってるね。
あの人たちの意識の高さは本当にすごくて、めちゃくちゃ刺激もらってたよ。
━━ どんな感じなのか、もうちょっと具体的に聞いていいですか?
迎里:監督のきめ細かい指導がまずあって、選手たちは泣くくらいバチバチに練習して、質も量もこなして、でもそれは義務ではなく柔道が強くなりたいからで、居残り練習とか研究もすごくしてた。
人柄も素敵な人が多くて、俺コマツの選手みんな好きだったな。
なんかね、俺の柔道の指導はコマツでの経験が軸になってる。技術もだし、言葉もだし、試合展開とか組み立てとか。
━━ 柔道IQが高まっていくのを感じます。僕も柔道の指導をするときは大学の恩師である金野先生の影響をすごく受けてるなって自覚しているので。
大学は行ってよかったですか?
迎里:よかった。ありふれた言葉だけど、いろんな経験ができたことは本当に大きかった。
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━━ では、今回のメインテーマである松山東雲大学の話をしましょう。
迎里:大学4年の12月だったかな。もう柔道部は引退してのんびり寮で寝ていたら、監督にとつぜん呼び出されて「愛媛に松山東雲大学っていうのがあるんだけど、女子柔道部の監督としてお前のこと欲しがってるからさ。お前、卒業したら愛媛な」って言われて。
━━ は?(笑)。
なんて返事したんですか?
迎里:「愛媛ですか?あー、はい分かりました」って返事をしたかな。でも愛媛と日体は柔道の繋がりがあって、大学の先輩たちも愛媛で就職してる人いたから、嫌なイメージはなかったよ。
監督からは「松山東雲は前の監督さんがお辞めになってからも柔道部はあって、基板は出来てるし、なにより監督として話をいただいているから、お前のやりたいように出来る。こんないい話ないよ」って背中を押されて。
━━ 確かに、大学の監督はいい話過ぎます。
迎里:そうだよね。詳しいことはまたあとで話すけど、本当は家の事情で大学卒業後は沖縄に帰らないといけなくて、でもせっかくもらったチャンスにに飛び込んでみたい気持ちもあったから家族と相談してね。
松山東雲に行くと返事をしたその次の日には、愛媛から大学事務局の方々が東京に来てくださって、柔道部発足から現在の状況まで説明してもらって。
━━ おお、、、。卒業したら、お前愛媛になってる、、、。
なんの話をしたんですか?
迎里:当時の大学女子柔道界は強いチームが関東に集中していたから、これは狙い目なので?と睨んだ松山東雲が大学をあげて柔道部を創部したものの、同じタイミングで同地方にある環太平洋大学の柔道部強化が始まったり、前監督が辞めてから約2年正式な指導者が不在だったり、でも大学が期待して作った柔道部だからなんとか強化したいという話をされた。
━━ なるほど。
迎里:まあ自分のチームを作っていくのは面白そうだし、松山東雲も「柔道部は強化クラブだから強くしてほしい」って話をしてくれたから楽しそうだなと思って。やるからには本気で全国上位を目指そうと引き受けることにした。
だけどさ、日本体育大学を卒業していざ松山東雲に行くと、想像してた柔道部のイメージよりも現状がかなり酷かったんだよね。
━━ どんな状態だったんですか?
迎里:まず部員のモチベーションがかなり低くて、練習も乱取り3分×5本とか。俺が監督になって初めての練習も2人くらい平気で遅刻してきたし。
━━ 練習メニュー、衝撃ですね。小学生じゃん。
迎里:ここの学生も高校時代はインターハイに出てるレベルの子たちだから、決して弱くはないんだけど、意識のレベルがね。ぶっちゃけ最初の1年は柔道どころじゃなかったよ。学生の意識を変えるところから始めたから。
練習内容も日に日に変えていったんだけど、そしたらある学生に「松山東雲はそんなところじゃないんです!!こんなガッツリやるチームじゃなくて、、、違うんです、、、」って泣きながら言われたこともあったなぁ。
━━ あらま。
迎里:俺だって「君たちスポーツ推薦で大学に来たんでしょ?特待生なんだからちゃんとしろよ」みたいなことはなるべく言いたくないじゃん?でもこっちの考えがまったく伝わってないのが分かったから、理解してもらおうと思って、もうはっきり言った。
「申し訳ないけど、そういうところじゃないっていうのは誰が決めたの?大学は柔道部を強化クラブとして、君たちを特待生で招いているわけ。で、俺は監督としてこの大学を強化するために呼ばれてるから、こんなところじゃないって決めるのは俺であって、あなた方が決めることではないよね?」
って。
━━ おお、何が何でもその場にいたくないことだけは分かる、、、。
監督不在の2年間でその状態が出来上がったと思うと、まあ学生も可哀想な気がするけど、一番大変なのは先輩ですよね。ちなみに大きく変えると書いて大変と読みます。
迎里:一生懸命頑張る人が浮くみたいな雰囲気もあったから、まずはそういう風潮を全部なくしたくて。
やっぱりきれいごとだけじゃやっていけないこともあるからさ。胸がチクっとするようなことは数えきれないほどあったけど、俺に求められているのは強化だったから、そこはブレずにできた。
━━ チームの目標はどうしてたんですか?
迎里:中四国の地方大会で団体戦はずっと最下位が続いていたから、環太平洋大学以外には勝って2位にはなろう、全国大会ではまず1勝しようっていうのは常に話してた。もちろん俺の中のプランでは環太平洋も食えない相手ではないと思ってたよ。
━━ 結果は?
迎里:1年目は最下位で、2年目は6チーム中の4位。
━━ 2年目はちょっと上がってますね。
迎里:1年目にスカウトして、2年目に入学してきた子たちは大学の練習が終わったあと、そのまま県内の高校まで練習に行くような努力家でさ。すごく素直だし、その子たちのおかげでまわりも少しずつ変わっていった。
恥ずかしい話、俺がスカウトに行っても高校の先生方からは適当にあしらわれたり、無視されたりっていうのがしょっちゅうで、特待生は5枠あるのに、3人しか選手を集められなかったんだよね。
でも、この出会いが大きな分岐点だったと思う。確実に流れは変わったから。まだ何の実績もないチームだけど、こうして一生懸命頑張る子たちが入部してくれるのは本当に有り難かった。
━━ 頑張りに成果が見えてきて嬉しいです。
迎里:3年目の団体戦は中四国で3位になって、個人でも一人皇后杯に出たんだよ。
━━ 皇后杯って女子の全日本ですよね?すごくない?
迎里:でっかいでっかい建物でさ。入場の時に一人ずつ名前呼ばれるんだけど、名前の後に松山東雲大学ってアナウンスされたのは嬉しかったなぁ。あんな舞台に立たせてもらって、本当にいい経験だった。
━━ 着実に成長してるんですね。
迎里:そうだね。学生の意識も高くなってきてたから、もう俺がいなくても自分達でガンガン練習するようになってたし。
3、4年目は進学希望者も枠から余るくらいいたし、個人戦で環太平洋大の選手に勝つ学生も出てきていたから。
━━ 本当にすごいじゃん。僕、先輩のこと舐めてました。
迎里:女子って信頼してくれたら本当に着いてきてくれるから、そこは男子との違いなんだろうけど、俺みたいな人間の話でもちゃんと聞いてくれて。
4年目の団体戦は中四国で2位になって、全国大会は初戦で桐蔭横浜大に2−2の内容負け。
負けはしたけど、関東の強豪とも戦えるレベルには成長してて、うちに学生を送ってくれた高校の先生たちにも「強くしてくれてありがとう」って言ってもらえて嬉しかったな。
━━ うんうん。
迎里:もう、ここまでやればこれだけ強くなるっていうのは分かるじゃん?
本当の意味で基盤は出来たから、これからはどう戦っていくか次のフェーズだよね。
スカウトの軌道、部員の高い意識、流れが出来たから、あとはうまく回っていくんだろなって思った。
そしてその年に俺は監督を辞めた。
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迎里:夏に母親が脳梗塞で倒れちゃって。
正確には俺の大叔母にあたる人なんだけど、高校生の時に養子縁組してて、戸籍上の母はその大叔母になっててさ。あの高校時代に世話焼きに来てくれたおばさんね。産んでくれた母親もちゃんといるよ。
高校で一人暮らししてる時も、大学生の時もすごく支えてもらった人で、この人がいなかったら俺は柔道を続けてこれなかったような恩人だから、本当は大学を卒業したらすぐ沖縄に帰るって約束してて。
おばさん、ハンセン病患者だから施設に入ってて、医療と介護はそこで足りてるんだけど、なるべく近くに居てあげなきゃって。
━━ そうだったんですね。ここまで作り上げてきた柔道部を手放すのは、本当に厳しい選択をしたのではないかと思います。
迎里:まわりの人たちには「愛媛に骨を埋める気持ちで頑張りなさい」と言ってもらっていたんだけど、心の中ではいつか帰らなくちゃって思いはずっとあってさ。
でも柔道部の学生たちは大切だし、この仕事もやりがいがあるし、ずっとどうしようって先伸ばしにしてた現実がいきなり目の前に表れたって感じだった。
自分の心に余裕がなくて、今までなら練習の雰囲気が良くない時もなんとか学生を奮い立たせようと試行錯誤してたけど、そいうのもなんだかバカバカしく思えてきて「あ、そんな練習するなら俺見ないよ」って練習に行かない日が増えてね。
━━ 限界過ぎる。心に余裕がないとかそういう段階を軽く超えてますよ、、、。バカバカしいから練習に行かないって、そんなタイプじゃないでしょ。
ちょっと笑えない精神状態、、、。
迎里:いつも応援してくれていた同僚の先輩に「最近どうしたの?あんな熱心に練習行ってたのに」って声をかけられて、もう気持ちも限界だったから「実は、、、」って話を全部聞いてもらって。
そしたらその先輩が裏で手回ししてくれて、トントン拍子に退職する方向に進んでいった、俺も変なマインドだったから、もう早く沖縄に帰りたいってなっちゃってさ。
━━ そういう時って、もうそれしか考えられなくなりますよね。
迎里:大学の理事長がすごい引き留めてくれて「柔道部、こんなによくなってるじゃないか?よし、わかった。とりあえず1年は介護に戻って、籍はこっちに置いておきなさい」って言ってくれたんだけど、中途半端なことはしたくなかったから、自分の中ではやるかやらないかでしか選択できなかった。
揉めたりもしたけど、結果的に退職することが決まって、日体の監督や学生を送ってくれた高校の先生方全員に「すみません」って挨拶まわりに行ったよ。
勿体無いって声をかけてくれる人がたくさんいたんだけど、もう抜け殻だったなぁ。
━━ (トゥクン!!理事長いい人、、、!!)
迎里:今当時を振り返ると、やっぱり普通の精神状態ではなかったと思う。酒の量とかもすごく増えて生活も狂い始めてから。
━━ 今の落ち着いた状態でもう一度選択出来るなら、どっちを選んでますか?
迎里:それでも沖縄に帰ってたかな。
ずっとそれらしい理由を話してるけど、毎日毎日24時間柔道部のことを考えて、週末はスカウトに出かけて、その日勝負みたいな日々を一生懸命生きてきて、4年間走り続けて「もう限界だよ」っていうのは常に頭の片隅はあったから。
この生活を続けて行く未来は見えなかった。
━━ 地獄みたいな日々で学生の存在に元気づけられたり、使命感を感じたり、なんていうか命の前借りをしているような生活ですね。
はっきり言いますけど、先輩のその状態って鬱ど真ん中じゃないですか、、、。
迎里:夜中にいきなり鼻血が出たり、血尿出たりはしょっちゅうだったね。
━━ それ聞いたら先輩が沖縄に帰ってきてよかったと思いますよ。
柔道部の学生にはいつ伝えたんですか?
迎里:退職は12月だったんだけど、それが決まったのが10月だからそのへんかな。
みんな号泣してて、膝からガクンってなってる子もいて、部員への罪悪感、申し訳なさ、俺はこの子たちを裏切った。もう柔道界には2度と携われないって思った。
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迎里:沖縄に帰ってきてからは柔道に距離を置いてのんびりしてたんだけど、県内にいる日体大柔道部OBの先生から「とりあえず履歴書を教育庁に出せ」って電話がかかって来てさ。
本当は嫌だったけど、まあ軽い気持ちで出したら、年度末の2ヶ月間限定で高校教員として学校現場で働くことになっちゃって。
でも、そこで出会ったのが具志堅博也先生(沖縄県高体連柔道専門部委員長)だったんよ。
━━ うわ、ここで具志堅先生出てくるんだ!!すっげぇー!!
迎里:これさ、もうなんか神様が俺と柔道をつなげようとしてるのかなって。赴任した学校に柔道部があって、部員がすごくお利口で、何より沖縄にこんな素敵な柔道の先生がいるんだって具志堅先生を見て感銘を受けて、、、。
都合いいけど、こういう教育の現場っていいなってすごく元気をもらった。
━━ 僕も具志堅先生のことすごく尊敬してます!!
迎里:具志堅先生に4月からは別の会社で働きますって話をしたら「僕は迎里先生は沖縄の教育現場にも、柔道界にも絶対必要な人材だと思う。迷惑でなければこのまま教員を続けてほしい」って言ってくれて、それがきっかけで俺の教員生活は始まったんだよね。
なんか巡り合わせ?出会うべきタイミングで出会うべく人と出会ってみたいな。
━━ 糸かな?
迎里:いや本当にそうだなって。巡り合わせで、俺は生かされてるなって。
━━ よかったじゃないですか。心はちょっとくらい軽くなりましたか?
迎里:それは変わらなかったかな。松山東雲の学生たちへの罪の意識は簡単には消えないよ。
だから「もうこれしかなかった。俺の選択は間違いじゃなかったんだ。家族のためなんだ、柔道より大事なものがあるんだ」って自分を正当化するしかなかったから。
━━ 結果的に自分を苦しめる選択でも、それはその時の自分が悩んで悩んで辿り着いたベストじゃないですか。だから時間が経って、あの時ちょっとあれだったなって思う一方で、その時の決断は肯定してあげたいって僕は思います。
迎里:うん、否定したくないよね。
おばさん、脳梗塞で倒れたから最初は大変だったんだけど、少しずつ良くなってきたよ。今はかなり元気になった
━━ ええ、、、それはよかった、、、!!
迎里:俺は愛媛での後悔とか罪の気持ちをたぶん一生払拭できないから、死ぬまで背負う覚悟でいる。そんな気持ちを抱えたまま一生懸命柔道と向き合っていきたい。
━━ 今の松山東雲大学柔道部ってどうなってるんですか?
迎里:昨年かな?柔道部の強化は終わるって決まったみたい。
━━ そっか、なんか罪滅ぼしじゃないけど、もっと前向きな気持ちで進んで行けたらいいですね。
迎里:そうだよね。なんかそこも分かんなくなっちゃっててさ。本当はもっと発信とかアクティブな感じで柔道と携わっていきたいんだけど、愛媛でのことがブレーキをかけてて、、、。
正直、この記事を出すことや今自分が柔道に携わっていることを松山東雲の学生がどう思うか考えると、不安だとか怖さだとかもある、、、。
━━ 分からないですけど、そこを気にして何もしないのだけは違うと思います。
あと、どうしたって自分の人生は自分でなんとかしないといけません。松山東雲の学生さんたちだって、先輩がいなくなった後も自分たちで頑張ったはずです。そういうチームを作ってきたのはあなたじゃないですか。
きっと大丈夫!!なんでもいいから、もっと矢面に立て、迎里卓!!って僕は思いますよ。
迎里:なんだろう、許しが必要なのかな。どこかで許しをこう自分がいるかもしれない。
あの時の学生たちが「私たちいま幸せだよ。先生も頑張ってよ」って思ってくれていたらいいなぁ。
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━━ では最後に今後の目標を教えてください。
迎里:やっぱり沖縄の柔道発展に貢献したいな。人口を増やすもの、競技力向上も、今よりもっともっと盛り上げていきたい。
そのためには自分のスキルアップはもちろん、同世代の人たちを巻き込んでさ。みんなで楽しくわちゃわちゃしながら、いろんな人が気軽に携われる組織を作れたらいいなって思う。
━━ 先輩が求心力になるのなら、それはきっと実現出来ると思います。
大変なことはいっぱいあるけど、一人で頑張り過ぎず、みんなで頑張っていきましょう。
今日はありがとうございました。
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Text by 平良賢人 (@taiken0422)
今回取材させてもらった迎里卓さんのSNSはこちら。