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taiken blogブログでは、僕が気になっている柔道家やその関係者をインタビュー形式で紹介で紹介します。

道は諦めないことで切り開かれるのだと知った。 #007 後藤飛名

 

”強豪の方々と様々な背景、環境は違えどその環境を選んだのは自分自身ですし、やるからには柔道という同じ土俵でのみ比べるべきだと思っています。負けて仕方ないなんてことは決してなくて、ひとえに努力が足りませんでした。ご指導いただいた多くの方に結果で恩を返せず申し訳ないです”

 

丁寧な言葉でそう書き綴られた彼女の北大柔道部ブログを読みながら、本当にその通りだと思った。自分が柔道で戦うと決めたのなら、それ以外のところに理由やケチをつけるのはナンセンスだと感じたから。そして上記の文章はこう続く。

 

”ただ、負けて悔しいけれど、それ以前にこのような大きな大会に出られたこと自体が他の誰かにとっては喉から手が出るほど欲しかった舞台で、悔しいと思えることすら本当にありがたいことだとも感じます。人の少ない北海道にいるというだけで、全日本出場に足る実力が伴っていないことを負い目に感じていましたが、今は貴重な経験ができたことを誇りに思えるようになりました”

 

北海道大学女子柔道部主将、後藤飛名。自身の思い出も早々に自分と関わってくれた人たちへ、感謝の言葉でしたためられた後藤さんの文章を読んで感動した僕は、そそくさとインタビューのお願いをした。

 

前半は諸事情によりほとんどの大会に出場することが叶わなくともひたむきに稽古に励んだ高校3年間、後半は大学進学に学生大会と七帝大会の両方を頑張ろうと決めた現在までの柔道生活と七帝柔道記に紐づいたエピソード、最後に選手としての彼女の視点を聞いた。(下記の記事を先に読んでいただけると、より理解が深まるのでお時間ある方はぜひ!)

 

※後藤さんを知るきっかけになった埼玉県春日部工業高校柔道部監督である小池雅彦先生のブログ

※後藤さんが引退の気持ちを綴った北海道大学柔道部のブログ 

 

***

 

━━ 初めまして。ブログを書かせていただくにあたり、恥ずかしがらず、できる範囲で盛大に自分語りをしていただければと思います。よろしくお願いします。

 

後藤:初めまして。私みたいに全然強くない人間がお話させてただくなんておこがましいのですが、本日はよろしくお願いします。

 

━━ では単刀直入にお聞きしますが、高校時代ほとんどの大会に出れなかったのはなぜでしょうか。

 

後藤:結論から申し上げますと、学校に柔道部の設立を認めてもらえなかったことがまず一番の理由です。そうなると登録の関係上、高体連が主催する大会には申し込みが出来なくなるので、もちろん試合にもエントリー出来無くて、、、。

 

━━ え、怪我とかそういったことが理由じゃなくて、そもそも申し込みすら出来なかったということですか……。

 

後藤:当時の学校のルールで”部員がいない状態が3年続いたら廃部”にするという決まりがあって、私の入学がちょうど3年目の年で柔道部に入部しようとしたら『もう廃部にするから入部しないでくれ』と言われてしまいました。

 

高校進学前から部員がいなくて柔道部は活動休止になっていると知ってはいたのですが、私も楽観的だったので、自分が入部すればなんとかなるだろうと思っていて。意外になんとかなりませんでした。

 

━━ なるほど、、、。その後はどのようになったのでしょうか。

 

後藤:学校の部活動ではなく練習は外部で行うから「全日本柔道連盟の登録だけでもしていただけませんか」と何度もお願いしたんですけど、その度学校側に断れてしまって、それで3年間インターハイや高校選手権など通常の大会には出られませんした。

 

まれに地域の道場が主催するような小規模な試合には自分で調べて出ていたのですが。

 

━━ ここ数年、数々のスポーツ大会やイベントを中止へと追いやったコロナ禍で、僕も含めてたくさんの人たちが経験したように、大会に出れない状態でモチベーションを保つことは簡単なことじゃありません。

 

ちなみになんですけど、後藤さんが柔道の試合に出るために動いている中で悔しかった出来事などはありますか。

 

後藤:私と同じように学校に部活がないから個人で新体操をしている子がいたんですけど、結局その子は認められて高体連主催の試合にも出れたんですね。それなのに私は学校側から『柔道は怪我のリスクがあるから』とか『柔道は組み合って技かけて投げて危ないからね』と断られ続けてしまって。。。

 

相談した先生に『君がどれだけ強いのか知らないけど、君一人のために教員は割けないよ。そんなに悩むなら柔道やめたらいいんじゃない?』と言われた時は悔しくて悲しくて涙を流すこともありました。

 

━━ これは酷すぎる、、、。ショックですね、、、。

 

後藤:高1の時は学校のコミュニティに参加したい気持ちもあったので女子バレー部に入部しながら、地元の道場で柔道を続けました。

 

━━ バレーボールを選んだ理由は。

 

後藤:バレー部は男女交代で体育館を使用していて早く帰れる日があったので、その時間で道場に通うために選びました。

 

ただ自分の中では柔道もバレーも両立させようと頑張っていたんですけど、頑張っていれば柔道の試合に出たいって気持ちが強くなってしまって。試合に出れないのも理不尽というか納得出来ない理由でしたので、やっぱりすごく悔しくて。。。

 

ふと「なんで私はバレーをしてるんだろう。ボールが拾えなくて怒られている間にも中学で知り合った柔道の仲間たちはみんな強くなっていっているのにな」って。

 

━━ 葛藤しますよね。

 

後藤:部活から早く帰れた日に柔道をするって考えもバレー部を利用しているようで罪悪感があって。。。このままだとどっちも中途半端になると思って、高2に上がるタイミングでバレー部は退部して柔道一本で頑張ることを決めました。

 

***

 

 

━━ 小池先生と出会ったのはいつ頃ですか。

 

後藤:高2になってからです。道場の後輩が春日部工業に進学したことをきっかけに練習に参加させていただいたことがきっかけです。

 

初めて練習でお会いした時に小池先生が『うちも女子が一人しかいなくて寂しい思いをしているので、ぜひこれからも来てください』と声をかけてくださって、これは行くしかないと図々しくもそれからは毎日放課後電車に乗って練習に参加させていただきました。

 

小池先生や部員のみなさんがあたたかく受け入れてくれて本当に嬉しかったです。

 

━━ 学校は違えど柔道ができる環境は有難いですよね。

 

後藤:春日部工業柔道部の部員になれたような気持ちもあったので、同じ世界を共有できているって喜びもありました。それに大好きな柔道の練習を満足に出来るのは嬉しかったです。試合の時は自分が出れなくても打ち込みの受けするなど、春日部工業生になった気持ちでちゃっかり一緒に動いていました。

 

━━ 小池先生との思い出を教えてください。

 

後藤:うーん、い出がありすぎてどれを話せばいいのか分からないのが本音です。普段の練習から県外の合宿にも連れて行ってもらったこともありますし、本当にいつも気にかけていただいたので。。。

 

いっぱいありますが、印象に残っているのは『後藤さんの背負い投げと巴投げをワンランクアップさせたいんだよね』と話してくれたこと、埼玉栄高校やその他にもいろんなところに連れて行ってくださったこと、春日部工業の生徒でもないのにまるで部員のように指導してくれたことが思い出というか、そういった日常が幸せだったと思います。

 

━━ 素敵ですね。小池先生のしてくださったこともやっぱり簡単なことではないと思うんです。そして先生の情熱や人柄に感動する一方で、後藤さんが途中で柔道を辞めずにいたからこその出会いでもあるので、本当によかったです。

 

後藤:小池先生と出会えていなかったら、私は今こうして柔道を続けられていなかったと思います。

 

それに高校時代は悔しいことばかりで、いいことないなって思うこともあったんですけど、なんていうか、逆に普通の高校柔道部にいたら出来ないような経験をたくさんさせてもらえました。

 

 

***

 

━━ ここからは大学進学後のお話をお伺いしたいと思います。

 

まず北海道大学(※以下、北大)に進学した理由を聴いてもいいでしょうか。

 

後藤:私は大きい動物が好きなので大動物の勉強がしたかったんですけど、それなら環境的に北海道の大学がいいなと考えていて、それとすごく単純な理由ですが、七帝柔道記という北大柔道部が舞台になっている小説を読んで、進路は北大一択でした。

 

━━ 七帝柔道記、最近僕も読みましたよ。壮絶な時代の話ですが、感動する場面が多々あって何度か泣きました。

 

七帝柔道記とは著者である増田俊也さんの自伝的青春小説で、僕らが普段している立技や寝技、組手を駆使してする通称「講道館柔道」とはルールが異なり、寝技の待てがなく、足持ちも認められている寝技重視が特徴の通称「七帝柔道」に、青春の全てを捧げた北大柔道部のお話。https://www.amazon.co.jp/七帝柔道記-増田-俊也/dp/4041103428

 

—— 実際に初めて北大柔道部の練習に参加した時の気持ちどうでしたか。

 

後藤:やっぱり嬉しかったですね。ちゃんと部活があって、当たり前に部員がいる。それだけでワクワクしましたし、憧れていた柔道部生活が始まったんだ!って感じでした。もちろん想像してたのと違うこともありましたけど。

 

—— 想像との違いは多々ありそうですよね。僕は北大柔道部の練習内容が気になっていて、七帝柔道記に書いてあった当時の練習では絞めは参った禁止など、読むだけで吐きそうになる内容でした。

 

後藤:あそこまで絞め落とす(失神させる)とかはないですけど、ずっと寝技してますね。七帝柔道を知らない人が見たら「なんだこれ」って驚くと思います。引くほど畳に背中擦り付けているので、、、。

 

メニューとしては基礎運動、寝技の補強、打ち込み、投げ込み、寝技の反復、乱取り、テーマ別の寝技練習、研究です。乱取りといってもみなさんがイメージしているような立ち技ではなくて、ほとんど寝技です。

 

—— ああ、なるほど。七帝ルールですもんね。そもそも乱取りに立ち技、寝技の区別がないんだ。

 

後藤:そうですそうです、乱取りは全部ごっちゃです。私はもう少し立ち技をやってもいいんじゃないかと思うんですけど。

 

 

***

 

—— 後藤さんは4年生ですので、今秋で学生柔道とは一区切りと聞いておりますが、柔道部で楽しかったことや青春だったと思うことを教えてください。

 

後藤:ゴールデンウィークに新歓合宿があるんですけど、その時に「アホラン」っていう大学から近くの山まで、街中を大声で叫びながら走るメニューがありました。他にも「クイゴク」と呼ばれている食トレや一発芸大会があって、あれは青春だったと思います。

 

—— アホランをもうすこし詳しく教えていただけますか。何を叫んでいたかなんかも。

 

後藤:朝の9時頃からみんなで列になって「札幌市のみなさん!!おはようございます!!おっはよ!!おっはよ!!おっはよ!!」って街中を走りながら全力で叫ぶのがアホランです。

 

—— は?めちゃめちゃヤバい集団ですね笑

 

あと「クイゴク」ってどんな字で書くんですか。

 

後藤:食うを極めると書いて「食い極」です。

 

—— (平良、大爆笑)

 

ここまでしっとり目で来ていたブログのテイスト変わってくるし、僕のパソコンが「食い極」とかいう危険な言葉覚えちゃったじゃないですか。

 

後藤:七帝柔道記でいう「カンノヨウセイ」が、現在は一発芸大会になっています。部員全員集まって、夜中にジンギスカンパーティーをしながらでとっても楽しかったです。施設管理の人にバレたら怒られちゃうかも知れませんが、、、。

 

これは新歓合宿関係ないですけど、小説にも出てくるトレーニングコーチの山内さんが行う通称「山内筋トレ」もたまにありました。山内さんが満足するまで終わらないという古き良きトレーニングで翌日は筋肉痛で生まれたての子鹿状態でしたね。

 

 

あとは先輩に奢ってもらった時は「ごっつぁんです」と大きな声でお礼をいう文化もありました。

 

—— 聞けば聞くほど、北大柔道部って楽しそうですね。小説に出てきたことが今の代にも残っていることは本のファンとしてすごく嬉しいです。

 

そして肝心な柔道の試合は「七帝大会」と「学生大会」の2種目ありましたけど、そちらはどうでしたか。

 

後藤:今年の七帝大会(※全国七大学柔道優勝大会)は男女アベック優勝、学柔連の方も北海道学生優勝大会3人戦で優勝出来ました。

 

—— すごい、おめでとうございます。

 

後藤:七帝女子は3人戦の勝ち抜きだったんですけど、後輩二人が一所懸命繋いでくれたり、みんながそれぞれの役割を果たして戦ったり、まさに団体戦というようなチームプレイが発揮出来たので優勝が決まった瞬間は感動しました。

 

OBOGさんからもたくさんメッセージをいただきましたし、男子の方は長らく低迷していたところからの復活優勝だったので、応援に来てくださった方が『俺たちの冬の時代を無駄にしないでくれてありがとう』と涙を流して喜んでくださいました。

 

—— 自分ごとのように喜んでくれる人たちがいるのは嬉しいですよね。あとチームプレイとは具体的にどんな感じだったんですか。

 

後藤:九州大学さんに神奈川県の桐蔭学園出身の選手がいて、高校時代は神奈川チャンピオンで金鷲旗でも3位になっている物凄く強い子なんですけど、まず先に北大の後輩が試合をして負けはしたものの疲れさせることが出来て、相手が疲れていたところを私が関節を決めて勝つことが出来ました。

 

真っ向勝負なら絶対に勝てないので、みんなで一丸となって戦えたと思います。

 

 


—— 今年、個人でも北海道学生で優勝した後藤さんは全日本学生と講道館杯にも出場されているんですね。

 

ブログ冒頭で紹介させていただいた記事には、自身が大きな大会に出場出来ることに負い目があったと書いていました。

 

後藤:やっぱり実力が伴っていないことが一番気になりました。講道館杯なんて一流選手たちが集まる大会ですし、北海道は人数が少なくてラッキーで出れるにしろ、全日本学生で自分が負けた相手が出れてないのになんでだよって。

 

個人的には勝ちたいと思って努力してきたつもりだったんですけど、他大学の方と自分を比べた時にこの大会に賭ける想いの強さに怯んでしまったというか、考えてしまいました。

 

—— そういうことだったんですね。でもちゃんと糧になったのではないでしょうか。

 

後藤:たくさん勉強になりました。試合は何も出来ずに負けてしまいましたが、この舞台に立ちたかった人ってどれだけいるんだろうと考えたら、申し訳なさを感じているよりも、私が出れたことにありがたいなって思わなきゃなって気持ちになりましたね。

 

—— 後藤さんのお話を聴いていると、何事にもちゃんと自分で向き合って、逆境なんかにも人や環境のせいにしない心の強さというか魂の気高さを感じます。すごいタフですよね。

 

後藤:中学生の時の先生がよく『出来ない言い訳を考えるんじゃなくて、今の環境で出来る努力を考えなさい』と仰っていました。当時はそれがすごく自分に刺さって、今でもその考えは大切にしています。

 

あと私は自己肯定感が低いところがあって、これまでの自分はその時の最適解というかベストを尽くしているとは思うのですが、今振り返ればもっとやれたなとかこういう方法もあったなとか考えてしまうんです。

 

だから自分では頑張ったと思っても、あくまでそれは自己評価でしかないので、自分で自分を頑張ったとは思わないように心がけています。上には上がいるって気持ちですね。

 

—— ストイック過ぎますよ、、、。たまには頑張っている自分をちゃんと認めてあげて下さいね。

 

そうだ、「ありのままの自分を受け入れる」って言葉あるじゃないですか?あれどう思いますか。

 

後藤:すごく素敵な言葉だと思いますし、救われることもあるんですけど、私はそれを自分に都合よく使ってしまいそうで、、、。

 

弱い自分も、弱くなっちゃう自分がいることも分かっているので、だから大体のことは「それ頑張ったらどうにかなるんじゃね」って思うようにしてます。

 

—— 理想の自分、なりたい自分になるために「ありのままの自分でいい」だなんて都合のいい言葉に甘えんじゃねえみたいな?

 

後藤:

 

—— これ僕が好きなマンガに出てきた言葉なんですけど、共感できますか。

 

後藤:出来ますね、刺さりました。

 

 

***

 

—— 後藤さんは大学を卒業したあとも柔道は続けますか。

 

後藤:続けたいと思っています。社会人になってからは全日本実業個人選手権に出てみたいと考えています。

 

—— いいですね。大学柔道を終えて、これまでを振り返って、なにか一言お願いします。

 

後藤:大学での柔道生活は本当に楽しかったです。明確な目標を立てて、それに向かって頑張れるのがすごく嬉しかった。高校の時は心の中で誰かに認めてほしい自分がいて、それが情けなかったですし、自分が嫌いになってしまったりとかもあったので、所属出来るチームがあることは幸せなことでした。

 

そして先ほどもお話しさせていただいた通り、高校の時は小池先生をはじめ、他にもたくさんの先生方や一緒に稽古をしてくれた同年代の柔道仲間など、いろんな人に支えてもらって、今の私があります。まわりに恵まれてばかりでした。言葉では伝えきれないくらいみなさんに感謝の気持ちでいっぱいです。

 

—— 僕が思う理想の柔道選手像は「応援される選手」なんですけど、それは身内だけの話じゃなくて、自分でも知らないようなところで、応援されたり活躍を喜んでもらえたりしてこそだと思うんです。

 

今日初めてお話しさせていただきましたが、多くの人たちが後藤さんを応援する理由がよく分かる気がしました。

 

それでこれからもまわりの人たちに感謝の気持ちを忘れないで、自分が納得のいく柔道生活を営んでほしいし応援しています。

 

後藤:ありがとうございます。図々しいくらい図々しく語らせていただきました。

 

—— 今回はありがとうございました!また機会があれば、ぜひお話しを聴かせて下さい。

 


***

 

みんなに元気を与えられる人を紹介したいと思ってスタートしたこの柔道ブログ。

 

たとえ世界で活躍するような選手じゃなくても、有意義で、尊くて、もっとみんなに知ってほしい素敵な柔道家がまだまだまだまだ沢山いる。

 

後藤さんと話をして、改めてそういう人たちを取り上げられるように、これからもっともっとブログの更新を頑張っていきたいと思った。

 

孤独になっても、不安に晒されても、決して諦めずに戦い続けた彼女の姿に、道は諦めないことで切り開かれるのだと教えられた。

 

Text by 平良賢人 (@taiken0422

 

「適度に適当に」柔道女子-57kg級カナダ代表、出口クリスタ選手 8000文字インタビュー

※こちらの記事は2021年5月に別媒体で書いたものを再編集しました。

 

こんにちは、平良賢人です。

すこし前にあった沖縄県の国体予選で優勝したのですが、試合を見ていた友人に「おめでとう、いい相撲だった」と言われました。

 

さて、今回の記事は約8000文字もあるボリューミーな長編です。次の記事は女子選手の話を聞きたいと考えていたので友人伝いに「もしよろしければ」とインタビューをお願いし、快く引き受けていただきました。

 

気さくで心地よい雰囲気の中に垣間見えるプロとしての柔道観や、柔道だけにとどまらない将来実現したい夢、必読です!

 

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出口 クリスタ(christa Deguchi)
1995年10月29日 長野生まれ 妹は同じくカナダ代表の出口ケリー選手
職業 日本生命所属の柔道選手(カナダ代表)

主な実績
・2018 世界選手権 3位
・2019 世界選手権 優勝
・2020 グランドスラムパリ 優勝
・2021 グランドスラムアンタルヤ 優勝 

 

***

 

—— はじめまして。こんな訳の分からないブログに登場していただいて、本当にありがとうございます。今日はよろしくお願いします。

 

出口:いえいえ、逆に私で大丈夫でしょうか?よろしくお願いします。

 

—— では簡単な自己紹介からお聞きしたいのですが、出口さんの性格を教えてください。

 

出口:ほどよい適当で、辛いことは嫌いです。あと人を信じやすいから詐欺に引っかかりやすいタイプかも知れません。

 

友達に冗談でよく騙されるんですけど、ネタバラシで「嘘だよ」って言われて「えぇ?」みたいなことが多々あります(笑)。

 

—— なんか意外です。野生の感というか、クールに見破りそうなイメージでした。

 

好きな食べ物はなんですか?

 

出口:その時々で変わるんですけど、安定して好きなのはバターですね。バターを使った料理が好きで、とりあえずたっぷり派です。

 

バターって食べ物を何でも美味しくするじゃないですか?鮭のムニエルやワッフル、パンケーキとかシンプルなのも好きです。

 

—— じゃあ得意料理もバター系ですか?

 

出口:んー、得意なのはナスの煮浸しですね。

 

—— (全然バターじゃなかった)

 

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***

 

—— 以前読んだインタビュー記事で「カナダ代表はもし試合で負けても『また次頑張ろう』とポジティブな空気があって、それが私には合っていた」と話していました。日本とカナダ、両方の代表を経験している出口さんの視点でそれぞれの印象を教えてください。

 

出口:どちらが良い悪いではありませんが、日本の柔道はまず礼儀作法を大切にするなど、勝った負けたの競技性だけではない面があると思います。それは人間教育だったり武道であったり。

 

それにお家芸と呼ばれているくらいですから、国の代表レベルになると求められることも莫大なものになりますよね。オリンピックや世界選手権でも絶対に金メダルを取らないといけないって空気がある。

 

—— その空気はありますよね。オリンピックで金メダルを取れなくて、テレビで謝っている競技なんて柔道の他に聞いたことないです。

 

出口:もちろん日本代表としてその重圧を受け入れて力に変えられる選手はすごいなと思います。ただ私の場合、勝ちを強要される雰囲気があんまり得意じゃなくて......。

 

技術的にも精神的にも自分が未熟であることは百も承知ですが、日本代表の時は国際大会であまり良い成績を残せませんでした。

 

—— もともと日本代表だった出口さんが、カナダ代表として競技を続けることを決めたのはどのタイミングだったのでしょうか?

 

出口:初めて話をもらったのは高校生の時ですね。でもその頃はインターハイで優勝していたので「将来は日本代表でオリンピックを目指すぞ」という気持ちでした。

 

—— そりゃそうなりますよね。

 

出口:柔道のキャリアとしては順風満帆な高校時代でしたが、大学ではあまり上手くいきませんでした。講道館杯や選抜でも1回戦負けが続いて、他の主要な大会でもなかなか勝てなくて、、、。そんなタイミングでまたカナダから誘いが来ました。

 

たぶん1年くらい悩みましたね。就職とか今後どうやって柔道を続けていくのかとか。それで、まあ悩んでばかりいても仕方ないので「カナダ代表で頑張ろう」と決断しました。

 

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—— カナダ代表として試合に出たり合宿に参加したり、日本とは違う新しい環境での柔道はどうでしたか?

 

出口:カナダ代表で試合に出ることになって、たぶん相当期待されていたんでしょうね。初っ端からグランドスラム2大会に選ばれました(笑)。

 

—— すごい(笑)。大会の結果は?

 

出口:結果は両方とも初戦敗退でした。内心「やばい、、、。これからどうなるんだろう?」と焦っていたんですけど、チームメイトやコーチたちはみんな気さくに「次頑張ろうよ。久しぶりの国際大会なんだし、これから少しずつ頑張ればいいよ」って声をかけてくれて……。そこは本当に驚きましたね。

 

それにカナダの柔道環境は決して恵まれているとは言えなくて、例えば国際大会に出る時に連盟が遠征費を出してくれないこともあるんです。その時選手は自腹でお金を出してでも試合に行くんですけど、率直に「私はそこまで出来ないよ」と思いました。

 

ですが、それをきっかけに私は柔道を嫌々やっていたのかな?と自分の柔道との向き合い方というか「今のままじゃ駄目だな」と反省する機会になりました

 

—— 競技レベルの高い日本では当然評価も厳しいですし「少しずつ頑張ればいいよ」だなんて、ポジティブに声をかけるのはちょっと難しいのかなと思います。

 

出口:それと日本代表だと国際試合で優勝するのは当たり前って雰囲気あるじゃないですか?国の代表だし、私もそれが当たり前だと思っていたんですけど、カナダ代表ではそれが大違いでした。

 

世界選手権で3位になった時に「あぁ、負けた、、、。銅メダルだ、、、」って落ちこみながらカナダのコーチに会いに行ったら、ガックリしている私を横目にあっちは大喜びしていて、、、。

 

めちゃめちゃ笑顔で電話報告なんかしてるし、選手のことを自分ごとのように喜んでいました。感情を隠さずに大喜びしている姿は選手と真っ直ぐに付き合ってくれている気がしましたね

 

***

 

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—— カナダ代表のコーチと選手の関わり方が気になります。

 

出口:師弟関係というよりはパートナーって雰囲気だと思います。日本は礼儀作法や目上の人を敬うような文化がしっかりしているから、ある程度の壁というか、先生と生徒って柔道に関係あることしか話さないのが一般的な関係じゃないですか。

 

でもカナダでは恋愛の話とか柔道以外の話も普通にバンバンするんです。

 

—— めちゃめちゃフレンドリーですね。日本ではあまりプライベートには踏み込まないのが主流なので文化の違いもありそうです。

 

出口:選手が髪の毛をすごい派手にしたりピアスをつけながら練習をしたり、そういうことも含めて、以前私の担当コーチであるサーシャという人に「どういうつもりで選手と向き合っているの?」と聞いたことがあるんです。

 

するとサーシャは「先生というのは選手をサポートするのが役目であって、それ以外はいらないんじゃない?」と話していました。たしかにサーシャは打ち込みをバンバン受けてくれるし、試合前の柔道着コントロールだって行ってくれる。そういうところまでしてくれるのは日本とは考え方の違うところだと思います。

 

—— うんうん、全然ちがいますね。

 

出口:あとおもしろいなと思ったのが、日本の柔道家は礼儀作法や身だしなみをきっちりするといった「選手像」があるじゃないですか?日本はその選手像を崩しちゃいけないってところにフォーカスしているような気がしていて、逆にカナダでは柔道家の選手像があまりないんです。

 

例えば髪の毛をとんでもなく派手にしたとしても「どうぞご自由に」なんです。縛らずに選手の好きなようにさせることでそれが心の健康につながっている。これはすごく私に合っていたなと思いました

 

—— 自由にはやはり責任が伴うと思うので、ある程度双方の信頼関係がなきゃ出来ないと感じました。選手だって自分をちゃんと見てくれているコーチは裏切れないというか、頑張らなくちゃって気持ちが少なからずあると思いますし。

 

改めて日本とカナダ、どちらが良くてどちらが悪いという話ではないですね。

 

出口:そうですそうです。柔道選手として私にはカナダの価値観が合っている部分が多かったという話ですね。

 

最近、日本では女子選手が結婚後も競技を続けられる環境が整備されていたり、苗字を変えて柔道を続ける選手が増えてきたり、そういうのはいい兆候だなと思います。コーチや指導者も海外に行って勉強してきた人が増えているから、そこでの文明開化がありますよね。柔道界の近代化というか。ちょっとずつですけど。

 

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—— 出口さんは何のために柔道をしているのでしょうか?

 

出口:環境が変わる度に自分の中で変化を感じています。私は3歳から柔道を始めたのですが、中学までは辞めたくても辞める勇気がなくて渋々続けていました。性格的に辛いことが嫌いで、自分に甘い。投げられると痛いし、練習では怒られる。それで試合勝てなかったら悲しいじゃないですか、、、。

 

—— 世界チャンピオンになるくらいだからてっきり、柔道一直線だと思っていました(笑)。

 

出口:高校進学も柔道推薦で行けば受験勉強をしなくて済んだので、それを天秤にかけて柔道を続けることにしました。高校ではインターハイで優勝したり、全日本合宿でトップレベルの選手たちを見て闘争心に火が付いたり。

 

やめられなくて続けていた柔道でしたが、高校からは明確に勝ちたいと思えるようになって意識が変わったという感覚があります。

 

—— 高校からは試合で勝つために、自分の目標を達成するために、柔道をするようになったんですね。大学に進学してからまた変化があったのでしょうか?

 

出口:大学に進学してからは自分のためだけじゃなくて、強い気持ちでチームのためにも頑張りたいと考えるようになりましたね

 

—— 上から目線みたいで失礼しますが、高校、大学と柔道への意識がすくすく育っているように感じます。チームのためにもというところ詳しく教えてください。

 

出口:大学柔道って団体戦がメインイベントじゃないですか?私は1年生からレギュラーに選ばれていたんですけど、進学した山梨学院大は本気で日本一を目指すチームでした。それで同期や先輩たちの思いも背負って戦わないといけないってプレッシャーがあったんです。

 

—— 1年生でレギュラー入りはプレッシャーでしたか?

 

出口:正直嫌でしたね。発表された時、マジかよって思いましたもん。当時は自分のことでいっぱいいっぱいだったので、団体戦に出ても足を引っ張るかもしれないと怖かった部分もあるし、負けたら先輩に顔見せれないとか、そういうネガティブなことばかり考えてしまったので。

 

—— 全国大会はどうでしたか?

 

出口:全国大会は接戦の末、なんとか優勝することができました。私はあまりチームに貢献できなかったのですが、先輩たちが泣いて喜んでいる姿だったり、試合前の追い込みで一丸になった感じとか、これが団体戦でこれがチームなんだなって思いましたね。日本一が決まった時の日本武道館の盛り上がりはたぶん一生忘れられないです。

 

団体戦で円陣を組んでる時は「うわぁ、めっちゃ青春じゃん」って。それも嬉しかった(笑)。

 

—— 団体は青春ですよ、、、。学生柔道ってそういうところいいですよね。

 

社会人になってからの柔道への向き合い方はどうなりましたか?

 

出口:社会人になってからはカナダ代表にもなっていますし、ここからは自分の力でご飯を食べていかなきゃいけない。覚悟も変わりましたし、柔道が生きるためのツールになりましたよね。今は猫も飼っているので養わなきゃいけない家族もいます。

 

会社には広告塔として採用してもらっているので、大袈裟ですけど社員のみなさんのためにも頑張りたい。スポンサーにもついてもらっていますし、いろんなものを背負ってる。責任重大ですね。

 

—— 自分以外の人や組織のために頑張るのはモチベーションが上がりますか?

 

出口:そうですね。私適当だし、辛いことは嫌いだし、たぶん自分一人だったら辞めちゃうと思うんですけど、いろんな縁が繋がってくれたおかげで、いまもこうして柔道を続けられている。誰かが関係してくれているから、私は頑張れているんだなって思います

 

—— その環境環境でつなぎとめて励ましてくれる人たちがいたんでしょうね。もちろん出口さんの人間的な魅力もあったのだろうと思います。

 

出口:世界選手権で優勝してからたくさんの人が応援してくれるようになったんですけど、その中でも特に嬉しかったのが「出口さんを見て柔道を始めました」って声が届いたことです。誰かの人生にちょっと色を加えるじゃないけど、少しでもプラスな影響を与えられていたら、それはやりがいがあるなと思いますね

 

***

 

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—— 柔道以外の話なのですが、出口さんは大の動物好きだと聞きました。SNSにも飼っている猫の写真をよく投稿していますよね?

 

出口:好きですね。猫に限らず動物が好きです。小学生の時は犬を飼っていないのに、家から30分かかるドッグランに走って行ってました。

 

—— 犬飼ってないのに!(笑)。

 

出口:家で飼えなかったから、犬と会うためだけに片道30分かけて走ってました。まわりからは「君、なにしに来たの?」状態なんですけど、満足した私はまた走って帰るという。

 

それに動物は昔から身近な存在で、うちには猫がいたし、叔母の家ではインコも猫も犬もハムスターも金魚もいました。身近な人に猟師もいたので鹿や熊、猪なんかを食べる機会もあって、そんな経験を通して命の尊さにも触れてきました。

 

—— ペットを可愛がるだけでじゃなくて、食べることで命の尊さを知る経験はまた見え方が変わると思います。

 

出口:そうですね。だから野良猫を見つけた時にその子が痩せてガリガリだとすごく心が痛む……。

 

今飼っている猫は私が保護したのですが、行く行くはまだまだ沢山いる野良猫を保護したり譲渡できる場をを作れたらいいなと考えています。

 

—— おお、これは猫限定ですか?

 

出口:猫に限らず動物全般です。なので保護猫カフェを経営するというよりはアニマルシェルターをイメージしています。柔道で得た影響力を将来的にこういうところに繋げていきたいです。

 

【アニマルシェルターとは】

アニマルシェルター部門の外見的な活動は、里親募集をする子犬仔猫を保護飼育すると共に里親探しに不適な犬や猫を終生保護収容して殺処分を避けることです。しかし、シェルターの目的はただそればかりではありません。野犬・身体障害・肉体的精神的病気・しつけの不能・その他様々な犬や猫と一緒に暮らすことによりスタッフは多くのことを学び、その結果を里親探しにフィードバックしたり、自身の動物の命に対する認識を深めることが出来ます。

https://www.lifeboat.or.jp/shelter/

 

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—— Twitterで見たのですが、出口さんはオリジナルの洋服などを販売してその売り上げを地域猫の避妊・去勢代に寄付するといった活動も行っていますよね。そういった発信から関心を持つ人もいるだろうし、有意義な影響力の活かし方だと思います。入口が出口さんというか。

 

出口:入口が出口?(笑)。

 

—— !!(笑)。

 

出口:ナイスでしたね(笑)。うん、こうやってすこしでも気に留めてくれたらいいなって気持ちでSNSは活用していきたいです。

 

それに日本って法律上、ペットは所有物扱いなんです。生き物じゃなくて物として扱われている。殺処分問題がそうなんですけど、例えばシェルターを作れば譲渡できるし、できなくてもそこで暮らせます。海外には犬税を徴収している国もあるのですが、まあそこまでとはいかなくてももう少しペットに寄り添った法律があってもいいのかなとは思います。

 

 

—— ちなみに洋服を始めたきっかけは?

 

出口:面白半分で作りました。プリントした写真は私のお気に入りなんですけど、もし買ってくれる人がいたらネコの募金にしたいなって。ちょっとでもそういう活動が出来たらいいなと。

 

 

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—— 出口さんにとっての柔道とはなんでしょうか?

 

出口:一言で言うのなら、私の人生そのものですね。小さな頃から町道場に通ってそこで私の人格は形成されているし、進学や就職、いまの生活の基盤や収入もすべて柔道です。まだ引退していないので、この先どうなるか分からないけど、将来的にこの柔道界に携わる仕事をしたいなと考えていて、振り返れば良いことも悪いことも私の人生のすべてだったと思います。

 

私は柔道だけで生きてきましたけど、それは自分の青春の全てを捧げてまでやるほど魅力的なもので、引退した後もこの世界に携わりたいと思っている。うん、柔道は私の人生ですね。

 

—— これから実現したいことはなんでしょうか?

 

出口:一番はオリンピックで優勝したいです。自分が代表を変えてまで追いかけたかったのはやはりここなので、私がカナダ代表になっても応援するよと声をかけてくれた人たちや、いつも応援してくれている地元長野県に金メダルを持って帰りたい。

 

それと私、ハーフじゃないですか?代表権の選択というところで、私ならカナダ代表だったんですけど、自分のもう一つのルーツを選ぶことは悪いことじゃないよって伝えられる選手になりたいですね

 

—— ふむふむ。

 

出口:カナダ代表を決めた時は私自身いろんな批判を受けましたし、辛いことを言われて傷心することもありました。もちろん日本代表として頑張るのもいいんですけど、ただ可能性があるのなら、その可能性は自分のために使って欲しい。自分が幸せになるための選択をして欲しいなと思います

 

私は幸運にもまわりに応援してくれる人が沢山いたから、いまこうして元気に頑張れています。ハーフの子たちが臆せずもっと自由に意思決定できるように、その道のパイオニアになりたいですね

 

—— 自分の幸せを選択することは当然の権利ですもんね。人間ですからまわりからの目や声を全部気にしないで生きるのは難しいと思うけど、その道の先頭にあなたのような選手がいるのなら本当に心強いと思います。

 

では最後に出口さんはこれからどういう人間になりたいですか?

 

出口:さっき話したパイオニアもそうですし、柔道をしている私だけじゃなくて、一人の人間として素の自分を応援してもらえるようになりたい。そして応援されるだけじゃなくて、私も誰かの夢を支えられるような人間になれたら嬉しいです。

 

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***

 

今回話を聞いた出口選手は本当に飾り気がなくフランクで「ああ、この雰囲気は人にも動物にも好かれるだろうな」と感じた。きっとこの空気はまわりをどんどん巻き込んで夢の実現に向けてさらに大きくなっていくのだろう。

 

適度に適当に。肩の力を抜いて自分の人生を歩む彼女の姿はマイペースに僕らの背中を押してくれる。

 

5年後10年後、これからの柔道人生とその先の道をずっと注目していきたいと思った。

 

***

 

Text by 平良賢人 (@taiken0422
Photo Credit by Tom Taylor/トム・テイラー

 

今回取材させてもらった出口クリスタ選手のSNSはこちら。

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「何度でも乗り越える。怪我をしてダメになるのは体じゃなくて心だから」#005 福岡克仁

 

「やれることを全部やって引退するならまだしも、心が折れて柔道から離れることはしたくありませんでした。やるからには何者かになりたいし、このままじゃ終われないって気持ちです」

 

画面越しにさわやかな挨拶が聞こえた。合宿中で疲れているであろう体にムチを打ちながら、記憶のひとつひとつをたどり、朗らかに一生懸命話してくれる。いつも気さくで物腰柔らかい雰囲気は、自信がなくて拙いインタビュアーの肩の荷まで下ろしてくれるようだ。

 

「入院してた病院のベランダで、茜色の空をぼんやり眺めていたら涙が止まらなくて。『こんなに頑張ってるのになんでだろう。なんで俺ばっかりこんな目に合うんだろう』って神様を恨んでいました」

 

道家、福岡克仁。大学1年で学生チャンピオンになり順風万歩に見えた柔道生活も度重なる肘、膝の大怪我で一転。医者には現役復帰でさえ難しいと言われた。しかし、苦しくて何度も挫けそうな日々を乗り越え、昨年12月ついに全日本実業個人選手権で奇跡の復活優勝を成し遂げる。

 

もし、いまあなたが出口の見えない暗闇の中にいたり、上手くいかなくて自信をなくしていたりするのなら、ぜひ福岡という人間を知って欲しい。どうやって彼は挫折を乗り越えてきたのか話を聞いた。(文章:平良賢人 taiken0422 写真:福岡克仁)

 


順風万歩に見えた学生時代、初の日本一

 

高校ではインターハイで2年連続3位入賞。翌年、日本大学に進学した1年目の秋に早くも全日本学生柔道体重別選手権大会、通称インカレで優勝し、自身初の日本一の栄誉をつかみ取る。勢いそのままにそれから直ぐに開催された講道館杯でも3位入賞を果たす。

 

インカレで優勝したのは大学生活にも慣れ始めた頃だったようで、一日一日がとにかく必死でしたと話す彼は「初めての日本一は本当に嬉しかったです。別格ですね」と少し照れたように笑っていた。

 

「1年生で学生チャンピオンになれたことは自信になりました。やってきたことは間違いじゃなかったし、これからもっと強くなれると自分にワクワクしていました」

 

大学2年ではインカレ3位、講道館杯5位。すこし順位を落としたが、裏を返せば1年目はただの勢いだけじゃなかったことの証明でもある。落ち込んでいても仕方がない、さあこれからだと気合いを入れて稽古に励んだ。

 

大学3年になった翌年、インカレの東京都予選でその事故は起こる。

 

「試合中に肘を脱臼して、日本武道館から救急車で運ばれました。結果的に肘の整復が6時間くらい出来ず、その影響から神経が麻痺して指が動かせなくなったんです。麻痺が残っている間はリスクがあって手術できなくて、結局1年近く柔道が出来ませんでした」

 

「ショックといえばショックでしたけど、もともと楽観的な性格なので『まあ、なんとかなるでしょ』って感じでした。余談ですが、僕が小学生の頃に想い描いていた将来の夢はサッカーのワールドカップで優勝して、その後に柔道のオリンピックで優勝するです。そんなタイプの人間です」

 

しばらくの期間、地道にリハビリやトレーニングに励み、1年後ついに神経が回復。競技復帰の目処が立ったのは奇しくも自身が肘の怪我を負ったインカレ東京都予選。とはいえ、もちろん万全の状態ではなかったため、普段右組なのを負担の少ない左組に変えて試合に出ることにした。

 

 

「東京都予選の結果は準優勝でした。下手くそなりに頑張りましたが、その後のインカレ、講道館杯ともにベスト16で敗退。それから直ぐに肘の手術だったので、大学4年は落ち着く間もなくごちゃごちゃでしたね。」

 

柔道をしている人ならよく分かると思うのだが、そもそも組手を変えることは決して簡単なことではない。それに補足しておくと、いくら予選といえど東京都はインターハイチャンピオンやら入賞者があたりまえにごろごろいる、なかなかにハイレベルな大会である。

 

「大学卒業前の3月には肘もだいぶ良くなりました。実業団が決まっていたので、『よし、ここからリスタートだ』ってかなり気合い入ってましたね」

 

 

残酷過ぎる運命、神様なんていない。

 

大学を卒業後、実業団の強豪である京葉ガス株式会社に所属し、社会人生活をスタートさせた福岡。日本大学柔道部で培った”圧倒的な稽古量”を信条にとにかく数をこなし、修行のような日々を送っていた。

 

「量質転化じゃないですけど、やっぱり”量”は絶対だと思っていました。それにどうしても不安な部分があったので量にすがるといいますか、、、」

 

もう一度選手として表舞台で輝くため、死に物狂いで日々の練習やトレーニングに励むこと3ヶ月。福岡は人生最大の挫折となった選手生命を脅かすほどの大怪我を負うことになる。

 

「ボキボキボキって音がして膝が変な方向を向いていました。直ぐに救急車で運ばれたんですけど、僕もあまり記憶がなくて、、、」

 

柔道の稽古中、自分の倍近くある体の大きな選手相手に強引に技をしかけたことが原因だった。

 

救急搬送された病院での診断結果は左膝の外側以外、前十字、内側、後十字のすべての靭帯が断裂し、半月板も損傷。選手生命に関わる大怪我は到底受け入れられるものじゃなかった。

 

「なんで俺なんだろう。なんでこんなに努力してる自分がこんな目に遭わなきゃいけないんだろう。って気持ちでした。入院してた部屋のベランダから夕焼けが見えるんですけど、綺麗な景色とは真逆で惨めな自分の姿に涙が止まらなかったです」

 

「医者からも『これはもう、、、選手としては、、、』って言われていたので、余命宣告をされたというか、どん底ってああいう時のことを言うんだろうなって」

 

肘の怪我を乗り越えたと思ったら、また直ぐに、それももっとハードな壁が現れる。俗にいう「神様は乗り越えられない試練を与えない」とはなんて残酷な言葉なのだろう、、、。

 

こんなに苦しむくらいなら、いっそこの怪我を理由に現役を諦めてもいいのではないだろうか。誰もあなたを責めやしない。夢を手放すのだって勇気ある選択なのだから。けれども、福岡は諦めなかった。夜眠れない布団の中で、人知れず溢れた涙の数だけ、また強くなって必ず畳に戻ると自分に誓った。

 

「気力はなかなか取り戻すことが出来ませんでしたが、小さな頃からオリンピックで優勝することだけを想って柔道を続けてきたのに、怪我で悩んで引退なんてそんな終わり方すごく悔しいなって」

 

「それこそシンデレラじゃないですけど、このまま終われば悪いストーリーでも、自分次第で良い物語に出来るかも知れない。だからどんなに辛くても、もう一度だけ頑張ってみようと思いました。そうやってギリギリの心をなんとか繋いでましたね」

 

 

それから福岡は以前肘を診てもらっていた担当医が専門的な膝の手術もできることを聞きつけ、病院を変えた。その先生に言われた「必ず現役に復活させてあげるから」という言葉を励みに手術を受け、長いリハビリ生活をスタートさせる。

 

「いつも調子が良いわけではなく、前向きだったり後ろ向きだったりしたので、とにかく焦らないよう、2歩進んで1歩下がるでもいいから着実に前へ進んでいきたいと思いました」

 

「最初は柔道を見るのが怖くて仕方なかったんですけど、それも少しずつ慣れていきましたね」

 

輝きを取り戻す。奇跡の復活優勝へ

 

怪我をしてから現役復帰までの期間、もう一度頑張ろうと自分を奮い立たせるきっかけになったエピソードはあるか福岡に聞いた。

 

京葉ガス柔道部の神谷快さんや野々内悠真先輩、日大柔道部の佐藤和哉先輩に声をかけてもらったこともそうなんですけど、なにより忘れられないのが一つあります」

 

「膝の手術をした年の講道館杯で、僕はスーツ姿に首からプラカードを下げて大会役員をしてたんですよ。決勝戦が終わったら優勝者を誘導する係になっていて、そこで誘導したのがジュニア強化時代から何度も全日本合宿を共にした藤坂泰恒でした。

 

同じ位置にいた仲間がいまや講道館杯チャンピオンになって、かたや僕は大会スタッフ。藤坂がいろんな人に声をかけられたりインタビューを受けたりしている間、こっそり影に隠れて惨めで情けない気持ちを堪えていたら、最後に藤坂が僕の肩をパーンと叩いて『俺たちはまだ若い。まだまだやれるっしょ』って声をかけてくれたんです。そこで『俺はスーツを着てこんなことしてる場合じゃねえ』ってスイッチ入りました」

 

たとえ所属が違くても、本気で柔道をしてるからこその繋がりがある。プロになってもこうして同年代で高めあえることがどれだけ尊いことか。そしてコロナ渦を挟み、ついに復活の全日本実業柔道個人選手権大会へと話は進む。

 

 

大会の結果は記事冒頭でも触れた通り、−73kgで優勝。正直な話をすると福岡自身も優勝はあまり考えておらず、ベスト4に入って講道館杯の出場権が取れればいいなくらいに考えていたそうだ。

 

「最初は『あ、優勝した』って感じでした。少しずつ頭が追い付いてきて、ちゃんと理解した瞬間には涙が溢れてとまらなかったです。ここまでの道のりはどうしても苦しいことばかりだったので、辛かった思い出なんかが一気に込み上げて『ああやっと俺、チャンピオンなれたんだ』って。

 

相手もいたので泣くのは我慢しようとしたんですけど、もう止まらなかったです。監督やコーチも泣いて喜んでくれて、一つ恩返しが出来たことも嬉しかった。それとオンラインの動画配信で応援してくれていた母ちゃんが1回戦から泣いていたらしく、優勝してよけい泣かせたのもよかったと思います(笑)」

 

 

 

「過去の自分に堂々と胸を張れるように生きたい」

 

実業団で優勝してから5ヶ月後。2022年5月に開催された全日本強化選手選考大会でも福岡は準優勝という成績を残し、勢いだけでなく地力があることを証明した。

 

「この大会でやっと強化選手に戻ることが出来ました。まあ次の講道館杯までの短い期間ではあるんですけど、これで堂々と『世界で戦いたい』と言えるようにはなったのかなと思います。がむしゃらに夢を追いかけられるのは嬉しいですね」

 

「膝の怪我は美談になんか出来ないし、自分に必要だったなんてそんな綺麗な話ではないです。ただ怪我をするのにはちゃんと原因があって、それは全部自分のせいなので、そこを防ぐ自己管理や柔道のやり方は常に考えるようになりました」

 

 

「いま10年前の自分に会ったとしても『怪我をして苦労したけど、やっとここまで戻ってきたよ』と胸を張って言えるので、これからも過去の自分に恥ずかしくないよう気を引き締めていきたいなと思います」

 

諦めずに努力し、人の心を動かし続けている福岡は誰よりも一番に感動を与えたい"相手"がいる。

 

「自分です。今まで頑張ってよかったなって、自分を一番感動させたいです」

 

どれだけどん底に落ちても必ず這い上がる強さが福岡にはある。今から目指す世界はさらに険しく、いままで以上に壁や試練が待ち受けているかもしれないが、きっと彼が進む道の先には応援してくれる家族や友人、同志でありライバルでもある仲間たちが光を照らしてくれる。

 

***

 

今回の取材は今年の5月に行ったものです、、、。

 

それと今週末は全日本実業個人選手権ですね、選手のみなさん応援しています!頑張ってください。

 

では最後に貴重な話を聞かせてくれた福岡選手、本当にありがとうございました。益々のご活躍を楽しみにしています!

 

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「自分を律する。」柔道のために生きる男の「自由」と「責任」と「覚悟」の在り方 #004 一色勇輝

 

「本気で日本一になるための努力をした。もうこれ以上やれない」

 

学生柔道を引退してから今まで、そう思うことで諦めた自分を正当化してきた。

 

度重なる怪我、才能、理想と現実とのギャップ、活躍する同期、どうしても気にしてしまう他人の目、馬鹿になりきれない自分、震えて眠れない夜。

 

これまで、それらしい理由を何個も何個も重ねることで自分の心を守ってきたのだけれど、引退して8年も経ち、趣味の範囲で思う存分柔道を楽しんだことがリハビリにもなったので、もうすっかりその必要は無くなった。

 

大切なのは自分を信じること。迷っても迷ってもそれでも自分を信じること。

 

***

 

なんてことを考えながらも、現実にそれができなかったからこうして苦労した訳で「そんなのあくまで理想論だよね」と、どうしても煮えきらない感情がポツリとそこに鎮座している。

 

競技の世界で、自分を信じて努力し続ける人って、一体何を考えているのだろう?

 

学生時代、不器用ながらも愚直にコツコツ努力している姿をよく見かけ、現在も実業団で活躍している日大柔道部の後輩に話を聴いた。

 

 

「ご無沙汰してます!本当に自分なんかでいいんですか?あと、先輩太りました?」

 

—— さわやかな笑顔を見せながら、謙虚なのか一言多いのかわからない調子でZOOMに顔を出してくれたのはJRA日本中央競馬会に所属する柔道+100kg級の一色勇輝(@yu___u_____ki選手。

 

 

一色 勇輝(yuuki issiki)
1997年2月20日 広島生まれ広島育ち
職業 JRA日本中央競馬会所属の柔道選手

主な実績
・2017 全日本学生柔道体重別選手権大会 2位
・2019 全日本実業柔道団体対抗大会 優勝
・2022 全日本選手権 5位

 

━━ 競技を続ける上で努力するにしても、いわゆる「正しい努力」が必要だと思うのだけど、一色は何か心がけていることはある?

 

一色:んー、自分としては努力に「正しい」も「正しくない」もないと思っています。人によって正解は違うし、もしそれで失敗したとしても「これは違ったんだ」と学びがあるので、それも糧にすれば良い悪いはないかなって。

 

━━ 確かに。確かに過ぎる。

 

例えば、重量級で短足の人が「俺は三角の名手になる」って一生懸命練習するとして、でもそれって自分の体型に合ってないじゃん?

 

一色:そうですね。だからそこに早く気づくことですよね。難しいですけど、ただ漠然と稽古するのではなく、考えながら努力しないといけない。

 

今まわりに東海大出身の人が多いんですけど、やっぱり「頭を使う」ことに長けているなと感じます。先生からも「脳の汗をかけ」って言われてるらしいです。

 

━━ なんだそれ、、、すごいな、、、。

 

一色:日大は基礎体力ガンガンつけて、地力上げて勢いで勝つ!って感じじゃないですか?自分はそれがフィットしたんですけど、それに伴って考えていくことをしないと上にはいけないなって最近よく思います。

 

━━ 日大には日大、東海には東海の良さがあるね。

 

一色:自分の長所短所をしっかり理解した上で、考えながら柔道やトレーニングに取り組めばより良くやっていけると思います。

 

***

 

 

━━ 自分の良いところ、長所はどんなところだと思う?

 

一色:しつこいところですかね。しつこさはあると思います。あと、まわりに恵まれるところです。自分のまわりは目標だったりお手本だったり、尊敬できる人たちが沢山います。

 

━━ 実業団のような天才や一流選手がたくさんいる世界で戦うにあたって、自分の長所であるしつこさと他にも必要なことってある?

 

一色:繰り返しになっちゃいますが考えることだと思います。今までは「自分の柔道する」でなんとか試合をやってこれたけど、それだけだと相手が見えないというか、このままじゃ本当に強い人には勝てません。

 

━━ 地力で上回る人には勝てるけど、そうじゃない相手には勝てない?

 

一色:はい。社会人になってすごく感じています。

 

━━ なるほど……。研究する時間は増えた?

 

一色:だいぶ増えましたね。ここ最近ですけど怪我も多かったので、その分頭を使うようにしています。場面や相手の想定なんかをよくやっていますね。

 

━━ ちなみに怪我ってどんなの?

 

一色:手首の手術をしました。それまでにも小さいのがずっと続いていて、最後にガッツリ手首やっちゃいました。

※2021 3月

 

 

━━ うわぁ、満身創痍じゃん、、、。なんでそんなに怪我続いたの?

 

一色:社会人になってから一気に怪我が増えたんですけど「これはなんでだろう?」と考えたときに、1番の原因は「生活の乱れ」だと気付きました。夜遅くまでスマフォ見て睡眠時間削ったり部屋が汚かったり、柔道のために生きてなかったんです。

 

今になって金野先生の話ていたことがわかってきました。学生の頃「部屋を綺麗にしなさい」ってやたら厳しく言われていたじゃないですか。たしかに部屋が片付いている方がスッキリしますし、気の流れもいいですよね。

 

━━ 懐かしい、掃除は本当に厳しかった。

 

一色:日大って誘惑を上手くカットされていたじゃないですか?点呼もあって、朝練もあるから夜早く寝ないといけないし、無意識のうちに柔道の方向に向いていた。

 

けど社会人になって仕事に行き始めるといろんな人との繋がりもできたし、自由が増える分、誘惑も増える。自由であればあるほど、自制できてないとダメだなって思いました。

 

━━ その言葉、5年前の俺にも伝えてあげたい……。

 

一色:とっくにですが、もう学生じゃないのでこれからは本当の意味で自分の方向を柔道へ向けなきゃいけない。そこを今軌道修正してるんですけど、やっぱり社会人1、2年目はそこに気付けなくて迷走したというか。だらしなかったです。

 

━━ 実業団とかプロの世界ではそれができないとやっていけないんだよね、、、。

 

一色:愚直に怪我をせず毎日全力で生きて、良い習慣を作りながらそこに変化も加えていければ、必ず結果が出ると思います。それを日大で分かっていたような感覚に陥っていました。

 

日大を卒業して3年。けどまだまだこれからなんで頑張っていこうと思います。

 

 

***

 

━━ 可能性の話なんだけど、学生柔道で東京に出てくる人たちって高校までは埋れていても大学で結果出すぞ、人生変えるぞって気持ちの人いっぱいいるじゃん?

 

でも当然まわりのレベルも高いから漫画のように上手くはいかなくて、じゃあ自分が生き残るには何をすればいいんだって悩みながら続けるけど駄目で、だんだんしんどくなってくるみたいなことってない?

 

一色:え、その連続じゃないですか?

 

━━ ふふっ。そうだね、そんなの当たり前過ぎるね(笑)

 

なんか悲劇のヒロイン演じてた自分がアホらしく思えてきたよ。

※分からない人は記事の最初の方を読んで下さい。

 

一色:馬鹿なのか楽観的なのか「もう無理だな」って思ったことは一度もないです。

 

まあもちろん不安はあります。大切なのはその不安から目を背けずにとことん向き合うこと。そして、考えて必死こいてがむしゃらに練習すること。それこそ考える練習を詰めて継続出来ていれば、良い緊張感で本番に臨めると思います。

 

 

━━ 直近の目標は?

 

一色:全日本実業柔道個人選手権の優勝です。

※取材は2021 11月に行いました

 

━━ 最終的な目標は?

 

一色:それは伏せときます。言ったら満足しそうなんで。

 

━━ なんで、、、!!教えてよ、、、!!

 

一色:まあまずは日本一になることですね。それから世界を目指したい……。

 

口だけならいくらでも言えるじゃないですか?オリンピックに出たいとか、金メダル獲りたいとか。自分はまだそれが現実的じゃないし、そんなこと言えるような位置にいないので、まずは日本一になることからです。

 

━━ ふんふん。そんなの超応援するよ。

 

一色:自分のために頑張るんですけど、それは結果を出して親とかお世話になっている人たちを喜ばせるためでもあるので、これからも常にベクトルを自分に向けながら、コツコツやっていきたいと思います。

 

 

***

 

一色選手と話していると「自分を信じるなんて当たり前。何に迷う必要があるの?」と、それまで悶々と気にしていた何かが一瞬で吹き飛んで消えてしまうような感覚になった。

 

小さくなってウジウジしてる自分が馬鹿みたいに思えてくるから、そんな気持ちにさせてくれる人の存在ってマジで有難い、、、。

 

これからは僕もちゃんと自分を信じて、信じられる努力を継続して、一歩一歩コツコツと進んでいきたい。

 

***

 

今回の取材は昨年11月にしたもので、のんびりだらだらしていたらこんなに遅くなってしまいました、、、。(土下座)

 

次回はストックしている記事を投稿して、またその間に新しい記事を書けるよう頑張ります。

 

 

Text by 平良賢人 @taiken0422

 

 

今回取材させてもらった一色選手のSNSはこちら。忙しい中時間を作ってくれてありがとうございました!

 

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福岡の名門!大牟田高校、柴田コーチのこれまでと指導者になって #003 柴田悠輔

※こちらの記事は2020年9月に書いたものです。

 

第3回はこの人。柴田悠輔先輩(大牟田高校柔道部コーチ)と話しました。

 

柔道関係者のみなさん。騙されたと思って必ず最後まで読んでください。

選手や指導者、そうでなくてもきっと背中を押してもらえますので!!

前半は柴田先輩のこれまで。

後半はコーチになってからの考え方や取り組み、大切にしていることについてです。

 

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柴田悠輔(シバタユウスケ/yuusuke shibata)

1991年5月20日 福岡生まれ 四人兄妹の三男

学歴 西崎中→大牟田高校→国士舘大学

職業 大牟田高校柔道部コーチ/寮監督

 

主な実績 

・2012 講道館杯全日本柔道体重別選手権大会 -60kg 5位

・2013 全日本選抜柔道体重別選手権大会 -60kg 出場

・2013 パンナムオープン・モンテビデオ-60kg 5位(国際大会)

・2012,13 全日本学生柔道体重別選手権大会 -60kg 5位

 

━━ 柔道を始めたきっかけを教えてください。

 

柴田:兄2人が先に柔道を始めていて、遊び感覚で道場について行ってたらいつの間にか自分も道着を着てたって感じかな。

 

小1の時に福岡から沖縄に引っ越して来て、最初は那覇にあった「練心館」に入ったんだけど、小5に上がるタイミングで「糸満警察署少年柔道クラブ」に移動した。

 

━━ 小学生のときはどんな感覚で柔道をしていたんですか?

 

柴田:柔道が好きと言うよりは道場に行けば友達と遊べるし、試合で3位以内に入賞したら「ファミコンのカセットを買ってもらえる」って約束でそれをモチベーションに練習してたと思う。

 

━━ あぁ、それあるあるですよね。ウチは優勝したら「二段ベッド」を買ってもらう約束でした。

 

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━━ 小学校を卒業して西崎中へ。僕と先輩は2つ違いだったので、1年間だけ中学校生活が被りました。後輩目線だとやはり「ストイック」というイメージがあります。

 

柴田:当時の西崎中柔道部は先生が来るまで練習しているフリをして、ゴロゴロするか遊ぶかだったじゃん?

 

ベランダで1年生に見張りをさせて先生の姿が見えたら「来ました!!来ました!!」って合図させるみたいな。

 

本当は練習したいけど、真面目にやってる方が浮くみたいな空気もあってそれが嫌だった。だけど俺は「みんな練習しろよ」って言うタイプでもなかったから「やるやつだけでやっとこうぜ」ってそんな感じだったかな。

 

━━ 引退してからも毎日練習に来てたし、よくロープ登りをしていましたよね。

 

柴田:高校の進路は福岡県の大牟田高校に決まっていたから、ちゃんと練習しておかないと「絶対死ぬ」と思ってさ。それで引退してからも毎日来てたんだよ。

 

━━ 高校で大牟田を希望した理由は?

 

柴田:兄2人が大牟田に行っていた影響。中学校の進路調査書には「第一希望 大牟田高校」としか書いていなくて、担任の先生に呼び出されて「第2、第3希望までちゃんと書きなさい」ってよく叱られてた。けど俺も意地になって「僕は大牟田にしか行きません」ってずっと言ってた。他の選択肢なんて考えられなかったから。

 

━━ 「進路調査書くらい適当に書きなさいよ」って思うけど、そこで意地になるのも、ものすごく共感できます。

 

では、ついに始まった高校生活はどうでしたか?

 

柴田:まず覚えているのが入学時76キロあった体重がハードな練習によって、3ヶ月後には58キロまで落ちていたこと。ライザップばりのダイエットに成功した(笑)

 

━━ (うわー、笑えねー)

 

柴田:高1のときは「試合で勝つ」とかそういう次元じゃなくて、毎日を生きる延びることに必死だった。朝起きて「今日も死なないように頑張ろう」って思って、夜布団に入って「よかった、今日も生きてる。明日も死なないように頑張ろう」の繰りかえし。

 

いちおう試合には1年生から出ていたんだけど、成績はいつも地区大会2回戦負け。沖縄では県大会1位2位くらいの実績だったから「ある程度やれるだろう」と自負していた柔道は全く通用せず、けちょんけちょんにやられて県大会にすら出られなかった……。

 

━━ 大牟田高校は全国屈指の柔道名門校であり、福岡県のレベルもめちゃめちゃ高い。

 

柴田:高2になってからは地区大会で入賞できるようになったけど、県大会にはなかなか進めず。1年後、高3最後のインターハイでやっと県大会に行けた。

 

その県大会でたまたま2位になって、九州大会にも出れて沖縄の友達に再会したら「よく福岡から上がって来れたな!」って驚かれたことを覚えてる。

 

ちなみに九州大会は初戦敗退。

 

━━ 高3の大会が終わって進路を決める時期がやってきます。国士舘大学への進学はこれもお兄さんたちの影響が大きかったんですか?(※兄2人も大牟田高校→国士舘大学

 

柴田:結果論で話すとそうなるんだけど、じつは筑波大学にも興味があったんだよね。まあ実績はないしどうしたら入れるかも分からなかったんだけど、秘かに「筑波行きたい」って考えててさ。

 

進路相談で柔道部監督の杉野先生に師範室まで来るよう呼ばれて、怖いけど「筑波に興味があります」って話そうと思っていたら、こっちからその話を切り出す前に「柴田、お前は国士舘でいいよね?」って言われて、「はいっ」って即答しちゃった……。まあそうなるよね〜みたいなね(笑)

 

━━ めちゃめちゃわかる(笑)

 

高校時代の話をもっと聴きたいのですが、今回のメインは「大学生活」と「コーチ」にしたいので次へ進めたいと思います。

 

先輩は「国士舘大学に行って人生が変わった」という印象があって、大学時代のお話をしてもらえますか?

 

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柴田:うんうん。大学で人生が変わったのは本当にそう通りだと思う。

 

高校時代、何の実績もなかった自分が全国で勝負できるようになったのは間違いなく国士舘で鍛えられたから。

 

最初に話しちゃうんだけど、コーチだった「百瀬先生」と同郷の「西村先輩」のおかげで強くなれた。

  

━━ 大学に入学したときはどんな目標を立てていたんですか?

 

柴田国士舘でレギュラーになって活躍するぞ!とは正直考えてなかった。まあ大学行くのはタダじゃないし、ウチは母子家庭で貧乏だったけど、母が女手一つで4兄妹全員を大学まで出させてくれているから、ちゃんと試合に呼べるくらいの親孝行が出来たらいいなと。

 

━━ ふんふん。てっきり「俺は日本一になるぞ!」みたいな決意があったのだろうと想像していたので、なんか意外ですね。試合はどうでしたか?

 

柴田:1年生の時は66kg級だったんだけど、大学デビュー戦の東京都ジュニアは2回戦で高上に秒殺された。同級生なのに「こんなに強いやついるんだ」ってびっくりしたなぁ。東京学生(※1)は校内予選で負けて、※体育系(※2)はベスト8だったと思う。

(※高上智史選手

※1 東京学生柔道体重別選手権大会 8月

※2 全国体育系学柔道体重別選手権大会 2月

 

2年生になって東京学生には出れたんだけど、その時も2回戦で高上とあたって、また同じ負け方で秒殺された。試合後に「俺、1年間何してたんだろうな?何も変わってないじゃん。ここらへんが限界なのかな?」ってけっこう落ち込んで悩んで……。

 

それで、体育系の校内予選があるときに普段から体重が64キロくらいだったから「60kg級にしてみようかな」と思ったんだよね。

 

━━ 分岐点ですね。

 

柴田:まず兄2人に相談したんだけど、次男には「お前が出来るんなら勝負してみたら?」って言われて、長男には「66で高上に負けて、勝てないからって逃げる感覚で60にするのならやめろ」と言われた。

 

自分の中で「確かにその感覚かも知れない」っていうのと「けど60kg級で勝負してみたい」ってうやむやしてたら、あっという間に体育系校内予選の締め切りが来て、百瀬先生に相談しに行ったんだよね。

 

先生の部屋に行って「今度の校内予選、60kg級で出たいんですけど」って伝えたら2秒後には「だめ。帰れ」って追い返された(笑)

 

だけど「もう60kg級でやる」と決めたから、また次の日に怒られる覚悟で「1回60で勝負させてください」ってお願いしに行った。そしたら「そこまで言うなら条件を出す。校内予選で1位通過できたらいいよ。けど、それ以外なら試合に出さない。それでも60にしたいんだったらどうぞ」って言われて、「分かりました。じゃあそれでやらせて下さい」って流れに。

 

━━ それでそれで?

 

柴田:校内予選は無事1位通過したよ。でもこの話にはまだ続きがあって、校内予選が終わったあと百瀬先生に呼ばれて「体育系で3位以内に入れなかったら60は諦めろ」と言われた。

 

体育系ではギリギリ3位に入れて「わかった。約束だからこれからは60kg級で頑張れよ」ってやっと認めてもらえて。そこから大学は正式に60kg級でやっていくことに決まったね。

 

━━ 百瀬先生は階級を落とすことに、なんでそんなに反対してたんですか?

 

柴田:指導者になってから「減量して成功した選手を見たことがない」っていうのが自論だったみたい。たしかに国士舘大でも減量で苦しんでいる人は多かったし、当時は試合も当日計量だったから。

 

まあ、そんな中で俺は先生との約束を果たしたし、普段から節制もしてたから「お前だったら大丈夫」って感じだったんじゃないかな。

 

━━ なるほど。

 

節制の内容って聞いてもいいですか?

 

柴田:俺は貧乏だったから、お金がなくて「練習帰りにちょろっと飲んで帰ろうぜ」とか「外食しようぜ」ってことが出来なかった。毎日寮に直帰して質素なごはんを食べたり、昼ごはんは自分で米を炊いて学食の安いおかずを買って済ませてたなぁ。

 

まあ結果的にお金がないおかげで身長が170センチあっても60kg級でやれていたんだと思う。

 

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━━ 60kg級に階級を下げてからの先輩はそれまでの結果とは比にならないくらいの快進撃を続けます。講道館杯で準決勝に進出し「全日本強化選手」になるまでの道のりを教えて下さい。

 

柴田:まず3年生になって出場した東京学生でべスト8に入ったのね。翌月の全日本学生(※1)では東京学生に続きまたベスト8。東京も全日本もどちらも同級生の志々目に負けたのは悔しかったけど、自分の力で講道館杯を決めることができたのは嬉しかった。

※ 志々目徹選手 2015世界選手権3位

※1 全日本学生柔道体重別選手権大会

  

そして講道館杯

 

1回戦は当時高校1年生だった永山。高1だし「さすがに負けないだろう」と思ってまったく研究しないまま試合に入ったら、これが本当に強かった。先に指導を取られて劣勢ながらG Sでなんとか有効を取ってギリギリの勝利。

※ 永山竜樹選手 2019世界選手権3位

 

2回戦は寝技で勝って、3回戦は優勝候補に勝って上がってきた選手に大外刈りで勝って、準決勝で志々目。「またお前かよ」って思った試合は判定2―1負け。3位決定戦は高藤だったんだけど、すでに体力が尽き果てていてフルボッコにされた。だから最終的な成績は5位。負けたのは悔しかったけど、準決勝まで行けたことに満足感もあった。

※高藤直寿選手 2016リオデジャネイロ五輪 3位

 

━━ 僕は会場で試合を見ていたんですけど、先輩が勝ち進むたびに「すげー!!」って興奮したのを覚えています。

 

講道館杯後、強化選手になったんですよね?

 

柴田:うん。これは大学を卒業してから聞いた話なんだけど、講道館杯の後に強化選手を決める会議があって、鈴木先生国士舘だし教え子だから「準決勝まで勝ち上がった柴田を強化選手に推薦します」って推してくれたらしいのね。

 

けど、まわりの先生はみんな「柴田?誰?」状態。「全日本学生はベスト8だし、今回だって強化選手には勝ってない」って意見が大半。

 

そんな時に井上先生が「それでも準決勝まで上がった実績は認めてあげましょう」って意見して、2人以外に反対されながらもなんとかねじ込んでくれたみたい。

 

━━ す、すげえ、、、。こんな話、ブログに書いていいのだろうか、、、。(みなさんお気づきかと思われますが、この2人って「鈴木桂治」と「井上康生」ですよ)

 

全日本の強化合宿はどうでしたか?

 

柴田:当時、国士舘は強化選手が少なくて、合宿に行っても知ってる人はいないし俺も人見知りだし、毎回毎回が憂鬱だった……。

 

━━ (憂鬱の理由それ?練習がキツいとかじゃないんだ)

 

4年生の春には選抜(※)にも出ていますよね?

全日本選抜柔道体重別選手権大会

 

柴田:うん。結果は初戦敗退なんだけど、その試合シバロックで抑え込んだんだよなぁ。だけど、いまみたいに認知されていなかったから「抑え込み」を言ってもらえなくてさ。関節狙いに切り替えたけど逃して、最終的に有効取られて負けた。

 

※シバロックは、柴田先輩のお兄さんが開発した寝技の技術。

 

バロックとは仰向けになった相手の右腕を固めながら相手の右側面に付いて抑え込む崩縦四方固。その際に相手の背後に自らの両脚が入り込んだ状態になる。この抑え込みは縦四方固に分類される。国士舘大学の学生によって開発されたと言われている。なお、2018年からIJFは腕を覆わない形のシバロックを認めなくなった。別名4869(しばろっく)。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/縦四方固#シバロック

  

 

柴田:試合後、百瀬先生に「高校県2位が選抜にまで出られたら上出来だよ」って言われたのをすごく覚えてる。でも悔しかったなぁ。「俺が出ていいの?」って思いも確かにあったんだけど、負けたのはやっぱり悔しい。

 

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━━ 大学生活最後の1年はどうでしたか?

 

柴田:なんとか全日本学生には出れたんだけど、結果は昨年と同じベスト8。

 

講道館杯は1回戦で負けた。それで強化選手も落ちちゃって……。ただ自分でも強化選手に入れたことはまぐれだと思っていたから、まあこんなもんだろうなって。

 

もしここで勝っていたら、まだ悪あがきしてたかも知れないけど、初戦敗退だったことで踏ん切りもついた。現役はパンピーなりに頑張っただろ?って気持ちだった。

 

━━ 僕を含めて先輩の活躍に勇気づけられた人は多かったと思います。大学卒業後の進路はどう決まっていったんですか?

 

柴田:大学2年生くらいから柔道を教えたいなって気持ちがあったから、杉野先生に「大牟田高校で柔道に携わりたいのですが」って内容の手紙を書いて、それを機に入れていただいた。

  

━━ そうだったんですね。

 

柴田:大学を卒業して大牟田に戻るときは「もうやり切った」って気持ちだった。授業がなくても大学に行って、道場でトレーニングをしたりウエイトをしたり。まわりの同級生からは「変人」って言われていたけど、それでも4年間頑張れたのは「俺は大学4年までしか柔道をしない」と決めていたからでもあって。

 

だけど、いかんせん負けず嫌いだから高校生と練習してて投げられるのは悔しいし、朝練のダッシュだって負けると悔しい。そんなんだからコーチになって2年目、3年目までは本当に生徒たちと同じ練習メニューをこなしてた。

 

もともと大牟田では指導に専念しようと思っていたんだけど、杉野先生が「自分の納得がいくまで現役は続けていいんだぞ」って言ってくれたのもあって、それで最近まで国体や実業団の試合にも出場してたみたいな。

 

一昨年の実業団で準々決勝まで上がって久しぶりに講道館杯に出れた。そこで選手としての踏ん切りはついたから、いまは自分のことよりも生徒のために頑張ろうと思ってる。

 

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***

 

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━━ ここからは「コーチになって」という視点でお話を聴いていきたいと思います。生徒と関わる中で大切にしてることを教えて下さい。

 

柴田:自分自身まだまだ勉強中で、先生方から指導していただくこともあるし生徒から学ぶことだってあるんだけど、柔道が強くなる以前に「柔道家」であって欲しいと思ってる

 

大牟田に戻って来て、一番最初に生徒たちに話したことは柔道ではなく「時間を守る」「嘘をつかない」「靴のかかとを踏まない」って内容でさ。

 

これは俺の持論なんだけど、それが出来ておけばたとえ柔道が弱かったとしても、社会に出たときに生きていけると思ってる。

 

この話はいまでも相変わらず言い続けてるよ。 

 

━━ 「強くなる以前に柔道家であって欲しい」。本当にその通りだと思います。柔道家として生徒たちにはどんな人間になってほしいですか?

 

柴田:これは杉野先生がよく話しているんだけど「応援される人になりなさい」っていう言葉がすべてと言うか大切だと。

 

試合で勝ってるときはどんなに馬鹿でもチヤホヤされる。だけど、いつか負けたときに「ほら、あんなことしてるから負けたんだよ」って、後ろ指をさされているうちは本物の柔道家ではない。負けた時に「あいつはいつも頑張っているから、応援してあげなきゃな」って思われるくらいの人間になりましょうって。

 

だからこそ「嘘をつかない」とか「時間を守る」っていうのが大切。別に時間なんて守らなくても柔道は強くなれるけど、試合に負けたときに「あのとき遅刻したから。あのとき嘘をついたから」って、少しでもやましい気持ちがあるうちは勝てないよって生徒には話してる。

 

やること全部やって、それでも勝てなかったらそれは指導する側の責任だから。

 

━━ 上手くいかないときにこそ、まわりから応援される選手は理想ですよね。それこそどんな世界に行っても通用すると思う。

 

柴田:面白いエピソードがあるんだけど話していい?

 

卒業生の中に日本一を狙える生徒がいて、インターハイで「こいつ、絶対優勝するな」って思った出来事があったんだよね。

 

開催地に移動して宿泊先の旅館に着いたら、玄関のスリッパがごちゃごちゃになっていたんだけど、その子がすぐに気づいて自分からササっと並べ始めた。それを見て「ああ、こいつは優勝する」と確信した。

 

そしてインターハイでは順調に勝ち上がってベスト8進出。だけど、準々決勝のアナウンスがされているのになかなか試合場に来ない。

 

3コールされたら失格なんだけど、2コールされた直後に「すみません、トイレ行ってました!!」ってあわてて走ってきた。間に合いはしたんだけど、肝心の試合はギリギリで負けちゃって。「すみません、すみません」って謝りながらわんわん泣いて……。

 

大会後、旅館に帰って夕食を食べていたらその子が俺のところに来て「柴田先生。自分、負けた原因わかってます。準々決勝の前にトイレをしてたら『アナウンスされてる!!』って聞いて、ヤバいと思って急いで向かったんですけど、トイレから出るとき、僕はスリッパを並べていないんですよ」って話してくれてさ。

 

それ聞いたとき、俺すごい泣きそうになって......。教えていたことは間違っていなかったんだなって。そういう選手が強くなるんだと思う。

 

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━━ 指導方針とかって聞いてもいいですか?

 

柴田:基本的な指導の形は昔からあるんだけど、杉野先生には「お前が思うことをちゃんと教えてあげろ」と言われていて、まあ「確かな知識と情報量を持って指導する」ことは大切にしてるかな。

 

いろんな人から「大牟田はどんな練習をしているの?」って聞かれるんだけど、別に大したことはしてなくてただ本当に基本に忠実なだけ。それこそ技術的なところだと「相四つは引手から絞りましょう」「けんか四つは釣り手を立てて前に出ましょう」とかそんなことしか教えてない。特別なことは何もしてない。

 

***

 

━━ 最後にいくつか質問をしたいと思います。

 

今後やりたいことを教えて下さい。

 

柴田:杉野先生と大牟田高校に恩返しがしたい。

 

━━ 柔道から学んだことは?

 

柴田:何事も「考え方」と「やり方」次第で勝負することができる。やればやるだけ自分にリターンがあるよって教えてくれたのが柔道だった。

 

━━ 沖縄の柔道界に一言お願いします。

 

柴田:偉そうなことを言える立場ではないけど、生まれ持った身体能力は比較的高いと思っていて、だからこそその能力を十分に生かす為の環境や情報が必要だと思う。立地的な問題で難しいところもあるだろうけど……。

 

━━ 座右の銘を教えて下さい。

 

柴田:凡事徹底。誰でも出来るようなことを、誰もマネ出来ないくらいやる人が本物になると思ってる。

 

━━ いい言葉!!僕もどこかで使わせていただきます(笑)

 

では、このへんで終わりたいと思います。柴田先輩、今日はありがとうございました。

 

柴田:ありがとう!お互い頑張りましょう!!

 

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***

 

今回の取材はオンラインでさせていただいたのですが、あっという間に時間が過ぎて最後の方は「すみません、あと1つだけ。あ、もう1ついいですか」をくりかえすことになりました。

 

本文には入れませんでしたが、柴田先輩との話の中で、僕がいちばん心に残っている質問を紹介してこの記事は終わりたいと思います。

 

***

 

━━ 「才能」っていったい何なんでしょうか?

 

柴田:俺は人間誰しもが何かしらの才能を持っていると思ってるよ。

 

例えば柔道なら一概に「柔道が強い」って才能はなくて、もっと小分けにした「バネがある(内股がかかる)」や「観察眼がある(組み手が上手い)」、「負けず嫌い(コツコツ努力できる)」みたいなイメージ。

 

自分の才能を早い段階から見極めて、それをどれだけ人生に生かせるかが大切なんじゃないかな?

 

 

Text by 平良賢人 @taiken0422

 

 

今回取材させてもらった柴田先輩のSNSはこちら。悠輔先輩、ありがとうございました!

 

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「心と目を合わせること」。トップアスリートに聞いた、幸せになるための視点。#002 レイズカヨル

※こちらの記事は2021年3月に書いたものです。

 

「結果が全てだ。報われない努力など何の意味もない」

仲間の活躍を素直に喜んでいるような精神では試合に勝てない」

 

これらの価値観はなかなかにシビアで厳しいものであるのだけれど、僕が所属していた大学の名門柔道部ではごく自然に、当たり前の価値観として根付いていた。

 

入学したばかりの頃だと「ちょっと待ってくれよ」と受け入れられずにいるのだが、次第に日本一を目指すというのはそういうことなのか?ともすれば覚悟が試されているのか?などと考えては悩み、大学生活が数ヶ月経った頃にはすっかり勝負の世界に取り憑かれているのだった。

 

ただこれだけは断言しておくと、それらは決して宗教的な洗脳ではない。部員のほとんどはチームのことが好きだったし「努力を労うのは引退してからでいいな」とも話していた。

 

僕個人としては「仲間の活躍を喜んでいるようでは勝てない」があまりしっくりこなかったので、そんな価値観は俺が試合に勝ってぶっ壊してやるよくらいに考えていたくらいだ。まあ先に壊れたのは自分だったのだけど。

 

***

 

あれから9年。現在僕は母校の高校柔道部でコーチをしながら日々エンジョイ柔道を楽しんでいる。

 

たまに出る試合なんかは「優勝したい」だなんて欲など一切持ち合わせておらず、勝つことよりも「練習している巴投げを1回かける」ことに魅力を感じるのだ。

 

しかし人間とはまことに勝手な生き物で、自分が応援しているスポーツ選手の活躍には大いに熱狂し、勝てば喜び、負けると残念な気持ちになる。彼ら彼女らのモチベーションだなんてこれっぽっちも知らないのに。

 

いまも第一線で活躍している同年代のアスリートって、一体どんな気持ちで競技を続けているのだろう?

 

そんな人の視点が知りたくて、さっそく大学柔道部の同期でリオデジャネイロオリンピックにも出場した友人に話を聴いた。

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久しぶり!元気してた?夕飯まだだから食べながらでもいい?(笑)」

 

—— そう気さくな笑顔で迎えてくれたのはJRA日本中央競馬会に所属する柔道カナダ代表のレイズカヨル(@kyle_reyes)選手。

 

僕らは学生時代、同じ寮で4年間も一緒に暮らしていたのだけど、当時の生活を思い出すかのようにインタビューは盛り上がったし、話をする中でお互いの成長にも気づくことが出来た。

 

前半は僕の知っているカヨルのこと。後半は彼が話してくれた現在の考え方や視点の話。

 

レイズ カヨル(kyle reyes)
1993年10月10日 カナダ生まれ群馬育ち
職業 JRA日本中央競馬会所属の柔道選手

主な実績
・2013 全日本学生柔道体重別選手権大会 優勝
・2013 世界ジュニア柔道選手権大会 優勝
・2013 グランドスラム東京 2位
・2016 グランドスラムパリ 2位
・2016 リオデジャネイロオリンピック 出場
・2019 グランプリモントリオール 3位

 

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大学時代のこと

—— カヨルとの出会いは日大柔道部に入ってからなのだけど、入学してすぐに団体戦のレギュラーに選ばれていたよね。メンバーが発表された時、両手で顔をおおって泣いていた姿を覚えてる。

 

レイズ:泣いてた泣いてた。めちゃくちゃ嬉しくて。まわりには「キモい」って言われたけどね。(笑)

 

—— 選ばれた時はびっくりした?

 

レイズ:びっくりしたよ〜。1年でメンバーに入れたのはスゴく嬉しかったなぁ。

 

—— 俺も嬉しかったし、同期のみんなも喜んでたよね。

 

まあ一方で当時は「仲間の活躍を喜んでいるようじゃ、選手として終わりだぞ」みたいな文化もあって。

 

レイズ:あったね。それもどうなんだろう。だって友達が活躍したらそれで嬉しいし、自分も頑張ろうって気持ちになるじゃん?

 

そこは純粋に喜べる人の方が強くなると思うけどな。

 

—— うんうん。俺も同じこと考えてた。同じ釜の飯を食べた仲間じゃないけど、友達の活躍は素直に喜びたい。

 

レイズ:俺たちはライバルだけど敵じゃないからね。

 

—— もう一つよく覚えていることがあって、一緒に行った整骨院の帰り道でお互いの目標を話したの覚えてる?

 

レイズ:ん、、あんまり覚えてないかも、、、。

 

—— 大学2年の夏頃なんだけど、カヨルが真面目な顔をして「1年以内に世界で誰にも負けないくらい強くなりたい」って話してたんだよ。

 

正直その時は「何言ってんだこいつ?」って思った。だけど、その年に世界ジュニアで優勝するはグランドスラム東京で決勝まで勝ち進むはで大躍進。

 

あの言葉は本気だったんだと、その時になって気づいた。

 

レイズ:ちゃんと覚えてはないんだけど、その時は勝つことがすべてだと思っていたから、もし負ければ自分の価値はないってモチベーションだった気がする。

 

だから少しでもプラスなことを話しておかないと不安に押しつぶされてしまう自分がいたのかな。もちろん目標であり、こうなりたいという理想でもあったんだけど。

 

ほら、金野先生もよく「マイナスなことは絶対に言うな!」って話してたじゃん?地獄のようなトレーニング中にも「気持ち〜って言え!」みたいな。

 

—— あったね……。年始にある走り込み合宿でもマイナスワード禁止ってルールがあったから、最終日の砂浜ダッシュ120本をみんなで「楽しい〜」とか「気持ちいい〜」って叫びながら走ってた。

 

セルフイメージ(潜在意識)を高めるためにポジティブな言葉を使おうってことだったと思うのだけど、あれはタフになるよなぁ。

 

レイズ:そういうのもあって、自分の望みというかこうなりたいっていうのはなるべく言葉にしてた。それで精神を保ってた部分もあるから。

 

だから大学時代はけっこう強気なことを言ってた気がする。

 

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何のために柔道(スポーツ)をするのか?

—— カヨルはなんのために柔道をしているの?

 

レイズ:これは俺もよく考えてることなんだけど、やっぱり「幸せになるため」じゃないかな。柔道をするために生きてるんじゃなくて、あくまで柔道は自分が幸せになる一つの手段って気持ちが強い。

 

もっというと「柔道は自分が幸せであることを確認するツール」だなと。

 

—— 柔道は幸せになるための手段って話、めちゃめちゃめちゃめちゃ共感する。幸せを確認するツールってところをもっと詳しく聞いてもいい?

 

レイズ:最近自分の中である大きな出来事があって、いろんなことを考えさせられたのね。けっこう苦しい気持ちとか嫌な気持ちにもなって「なんで俺、こんな気持ちになっているんだろう?」と思ってさ。

 

ただそれは今まで目を逸らしてきたことでもあったから、逃げ出さずにちゃんと向き合わないとなって思った。人生で初めてとことん心と目を合わせて対話をして、それまで自分にはなかった気づきが生まれたんだ。

 

ずっと一人で抱えて悩んでいたんだけど、それを機に家族にも話を聴いてもらったらすごく心が救われたんだよね。ありのままの自分を受け入れてもらえたことが心地良くて、ああ自分は幸せだったんだなと気づけるようになって。

 

—— それはたとえば普段あたりまえすぎて、つい見落としてしまいがちな幸せに気付くようになったとか?

 

レイズ:そうそう。いろんな幸せに気付けるようになった。もうすでに自分は幸せなんだというバックボーンがあるから、柔道は勝ち負けだけがすべてじゃないと思えるようになった

 

柔道を通して動き出す感情の一つ一つが自分との対話になっていて、それらは激しかったり優しかったり、面白い時もあればその輪郭すら掴めないこともあるんだけど、全部こっちの捉え方次第なんだよね。

 

もし試合で負けたとしても、変わらずに応援してくれる人たちの存在に気付けたりいろんな人と出会って切磋琢磨することに喜びを感じたり、柔道を通して自分が幸せであることを噛み締めながらこれからもやっていきたい。

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競技を続けるモチベーションについて

 

—— 勝ち負けだけがすべてじゃないという価値観は学生時代と比べて大きく変わったところだよね。いまの柔道に対してのモチベーションを教えて。

 

レイズ:どう自分が強くなっていくか、その過程を楽しむのがモチベーションになっている。「勝たなきゃ、勝たなきゃ」と思ってやってるトップ選手もいるし、そうやってモチベーションを保てるのは凄いことだと思う。自分もそういう気持ちの時期があったけど、今はもっといろんな柔道の楽しみ方をしたい

 

もちろん負けたくないから頑張るけど、それだけじゃない素晴らしいことが柔道にはスポーツにはあると気付けたから、これからもっと強くなれる気がしている。

 

—— すごい、素敵過ぎるだろ……。

 

トップアスリートが「スポーツは勝ち負けだけじゃない。こういう考え方もあるよ」って伝えることの意義は大きいよ。自分の意思を持っていることは大切なことだね。

 

レイズ:自分の価値基準で柔道と向き合っていくこの道の先が世界選手権優勝やオリンピック優勝に繋がっていると想像したら、なんだかワクワクするよ。

 

もし仮にそれが叶わなかったとしても、負けたら不幸なのかと言えばそうじゃないことをちゃんと知っているから、柔道に対して恐怖がないし、勝ったらどんな景色が見れるんだろう?ってポジティブな気持ちで過ごせてる。

 

—— なんて言うんだろ……。苦しまないと成功出来ないみたいな風潮に終止符を打つというか、もちろん俺みたいなファンからしたら想像もつかないような大変なこともあるのだろうけど、カヨルの信じた道を歩んでほしいなと思った。

 

それで友達としては第一に心と体がヘルシーな状態でいてくれたらいいなと願いつつ、夢が叶うことを密かに応援したい。

 

うん。アスリートって尊いね!

 

レイズ:ありがとう。自分の考えの整理にもなったし話せてよかったよ!

 

—— こちらこそ、今日はありがとう!また連絡するので、今後もぜひ話聞かせてください!

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—— 取材中にレイズが「今までは自分が幸せになればいいやとばかり考えていたけど、今は自分とそのまわりにいる人たちも幸せに出来たらいいなと思っている」と話していた。

 

明るくて優しい彼の姿勢には既に救われている人も多いのではないかと思う。

 

「応援したくなるスポーツ選手」という言葉が似合うレイズカヨルという男がこれからどのように自分の夢へと向かい、幸せを繋げてくれるのか。今後の活躍が益々楽しみになった。

 

そしてあわよくば彼の仲間として、その背中を押してあげられる友達でいるために、僕も自分で選んだ道を進んでいきたい。

Text by 平良賢人 (@taiken0422

 

 

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「俺が家族を支えなきゃ」。沖縄の柔道家たちに捧ぐ、信念の物語。#001 神谷快

「なにか面白いことがしたい。やりがいがあってそれでいてワクワク出来て、たくさんの人たちを元気に出来ることを」

 

盛り上がったお酒の席で目をキラキラ輝かせながらそんな話をしている。これはいわゆる「意識高い系」たちの間ではよく目にする光景だ。

 

夢や理想を語り合うのは自分へのプレッシャーに変わるのと同時に、活動するためのモチベーションにもなる。

 

けれども。

 

「ああしたい」「こうしたい」と話していたことを、実際に計画立てて行動に起こせる人がどれほどいるだろうか。思い描いていた理想と現実とのギャップに戦意を失い、あきらめてしまった人たちを何人も見てきた。

 

ちなみに「夢を諦めた理由」ググると、諦めた時期は平均で24歳。理由には「才能の限界を感じたから」が最も多く挙げられており、なんとも歯痒い結果である。

 

夢があっても、アツい気持ちだけではどうにもならないのかも知れない。

 

*** 

 

僕は「意識高い系」が「痛い」とか「うざったい」なんて話がしたいのではない。

 

ただ、自己アピールに中身が伴っていなかったり前向きさが空回りしていたり。上手くいかない現実にスタミナばかりを消費して、中途半端にあきらめてしまうのは寂しいではないか。

 

Twitterが人気の謎の主婦ことDJあおいさんは「意識高い系」と「本当に意識の高い人」との違いについてこう話している。

 

意識しているところは


『今の自分がどう見られているのか』 ではなく、
『今後の自分はどうなりたいのか』 なんですね。
だから、本当に意識が高い人というのは
例外なく謙虚であり努力家なんですよ

 

“意識高い系”と、“本当に意識の高い人”との違い【DJあおいの「働く人を応援します!」】│#タウンワークマガジン

 

・・・と、前置きはこれくらいにしておこう。

 

沖縄県出身の柔道選手に持ち前の元気と活力で、まわりを明るくしてくれる人がいる。

 

「沖縄のため、家族のため、応援して支えてくれる人たちのために。みんなに元気や勇気を与えたいって気持ちは、子どもの頃から一貫して変わりませんね」

 

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そう話してくれたのは、神谷快さん。

彼は現在現役の柔道選手として、日本のトップレベルで活躍を続けている。

 

※今回は「柔道」をテーマに、インタビュー形式で取材をさせていただきました。

 

神谷快(カミヤカイ/kai kamiya)
1994年10月6日 沖縄生まれ 三人兄弟の次男
学歴 南風原中→沖縄尚学高校→筑波大学
職業 会社員(京葉ガス所属の柔道選手)


主な実績

・2012 インターハイ 2位

・2015 全日本学生柔道優勝大会優勝(団体)

・2015.16 全日本柔道選手権大会出場

・2016 講道館杯全日本柔道体重別選手権大会 5位

 

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━━ 柔道をはじめたキッカケは?

 

神谷:小さい頃、とにかく落ち着きがなかったようで、心配した母に「武道を習わせよう」と剣道クラブに連れて行かれたんです。だけど、隣でやっていた柔道に興味を持ってそっちを選びました。小学2年生の時ですね。

 

━━ 体力があり余っていたんだろうね。柔道を始めてから〜現在までの柔道歴を印象に残っている出来事と一緒に教えてもらえる?

 

神谷:僕が柔道を始めた「宜野湾署スポーツ少年団」は厳しい練習をして強くなるぞという雰囲気ではなく、”柔道は楽しい”と教えてくれるようなゆるい感じの道場でした。

 

先生が「今日は柔道じゃなくて、みんなでサッカーをしよう」と遊ばせてくれたから練習も笑顔で頑張れたし、厳しさとは無縁のアットホームな環境だったので、すごく楽しかったです。

 

━━ 宜野湾署は強いイメージだから泣きながら厳しい練習をしていると思ってた。

 

神谷:ないないない。本当に楽しく柔道をしてたから(笑)!!

 

そんな環境だったけど、小6くらいには県大会で2位とか3位にはなれました。

 

━━ 中学校は柔道部の強化が始まった南風原中学校に進学。

 

神谷:南風原中ではそれまで楽しくやっていた練習から、一気に本格的な練習に変わって初めて柔道の「厳しさ」を知りました。寮生活だったので生活も一変してそれなりに苦労したんですけど、順調に強くなっている感触も確かにあって。

 

生活に慣れ始めて「よし、頑張るぞ」と思っていた中1の夏に、父が亡くなりました。

 

━━ うん、覚えてる……。ちょうど小さな大会があったんだけど、快は来てなくて。それで気になって南風原中のメンバーから教えてもらった。

 

神谷:落ち込むじゃないですか?家族みんながどんよりしてて、とてもじゃないけど前向きになんてなれない。悲しくて悲しくて仕方がなかったある日、母が一人で泣いている姿を見たんです。

 

その時に「俺が家族を支えなきゃ。俺がやんなきゃ。強くなんなきゃ駄目だ」って、自分の中で何かが変わって。

 

それからは本当に血の滲むような努力をしました。練習がキツくなったら叫ぶように声を張り上げて、毎日泣きながら稽古していました。

 

━━ いま振り返るとここが転機になったのかな。それから直ぐの県大会を1年生で優勝していたけど、決して順風満帆じゃなかったんだ……。

 

神谷:当時、沖縄県の中学柔道界って戦国時代だったじゃないですか?ライバルたちにも恵まれてメキメキと力がつきました。

 

ただその中でも「強くなりたい強くなりたい。なにクソ。お前らとは違うんだ。こっちは辛いことも経験してるんだ。負けてらんねえんだよ」って気持ちは常にあって。

 

小学生の頃は負けてもヘラヘラして、悔しさなんて感じたことがなかったので、そう考えるとけっこうな変化だったと思います。

 

━━ たしかに。小学生の頃と比べると、想像もつかないような変化だよね。中3の中体連では見事に全国大会3位入賞。まるで別人だよ。

 

神谷:この大会で結果を出せたことは本当に大きかったです。頑張ってきたことが報われた瞬間だったので、目標に向けて努力するプロセスの大切さを身にしみて感じました。全国で戦える自信もつきましたし。

 

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━━ 高校は県内の名門、沖縄尚学へ。ここで僕らはチームメイトになったんだけど、高校生活はどうだった?

 

神谷:南風原中でお世話になった先生方が沖縄尚学OBだったので、恩返しがしたいとの思いで進学しました。日本一を目標に掲げて始まった高校生活は地獄でしたね(笑)

 

━━ 地獄!!(笑)

 

でも本当に高校時代は気が狂ったように練習してたよなぁ。朝練で使うトラックのタイヤに鉄の重りがめちゃめちゃ入ってて、夜中こっそり抜きに行ったよね。

 

神谷:懐かしい!!あの3年間は死んでも戻りたくないです。

 

━━ むりむり。マジで無理。まあ、そんな高校生活の集大成。インターハイでは見事準優勝。

 

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 ━━ 高校卒業後は筑波大学に進学。大学生活はどうだっだの?

 

(話に関係ないけど、僕の中で当時の柔道強豪大学には、こんなイメージがありました。日大は雑草集団の叩き上げ。国士舘大国士舘大東海大はエリート集団。筑波は天才集団)

 

神谷:これあんまり話してないんですけど、入学して早々に挫折したんですよね。

 

高校では確かにインターハイで2位になれました。だけど「やらされている練習」をしていたので、自主性を重んじる筑波大学に来たら何をすればいいのか分からなくなって......。練習の追い込み方も分かっていたはずなのに分からない。

 

そんなタイミングで出場した関東大会は1回戦敗退。しかも高校時代に何度も勝っていた同学年の選手に負けました。

 

気持ちが入らなくて、柔道が楽しくなくなって、捻挫で1ヶ月くらい練習を休みました。

 

━━ 捻挫で1ヶ月?!これはメンタルきてるね。どうやって立ち直ったの?

 

神谷:1つ上で仲良くしてもらっていた、黒岩先輩という人に「神谷、お前も一緒にウエイトやろう」と誘われたのがきっかけです。

(※黒岩貴信選手 2019全日本実業柔道個人選手権大会 3位)

 

練習終わりに毎日1時間〜2時間ガチガチにウエイトをしてプロテインを飲んで、「じゃあ焼肉行くか」みたいな。腐りかけていた時に「自分が頑張れるコミュニティ」が出来ました。

 

そこでトレーニングをしていると、自分に向き合う時間、自問自答する時間が生まれました。「家族を元気にするために、父に恩返しをするために、信念を持ってやっていたはずなのに、ここで挫けてどうするんだ」って。いままでの悔しかった思いとか、そういうのが一気に込み上げてきて……。

 

「頑張らなくちゃ」「しっかりしなきゃ」って気持ちになって「父が亡くなったあと、俺が家族を元気にしよう」と思った中学1年の気持ちを全部思い出しました。

 

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━━ 過去の頑張りが、今の自分を支えてくれたんだね。挫折を乗り越えたあとはどうだったの?

 

神谷:順調でしたね。大学2年の終わりに初めて全日本選手権出場を決めて「自分はまだまだいける。可能性に満ち溢れてる」って感覚でした。翌年も全日本を決めたし、大学4年では講道館杯で準決勝まで上がったので、気持ちは上向きでした。

 

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━━ 全日本出場はもちろん、講道館杯で準決勝進出は本当にすごい……。

 

ところで筑波大学と言えば、快が3年生の時に団体で大学日本一になってるよね。その話も聴いていいかな?

 

神谷:もちろん!!この話なら3時間くらい語れますよ(笑)

 

まず、僕の1つ上にいい選手が集まったので、大学としてもその代で必ず日本一になるぞと4年計画で準備してたみたいです。それでいよいよその年になった。

 

インカレ前、あの時のチームの雰囲気は常軌を逸してましたね。強い弱い関係なしに部員全員が必死になって、今まで経験したことのない本気で日本一を目指すチームの練習をしていました。朝練から死ぬほど追い込んで、練習後はパワーマックス地獄です。

 

常にアドレナリンが出ていて、自分で自分を盛り上げるって意識が強かった。

 

━━ うわぁ、めちゃめちゃ分かる。僕がいた日大は前年まで3年連続全国大会準優勝だったんだけど、試合1ヶ月前くらいから異様な雰囲気だった。

 

神谷:インカレ、筑波と日大は準決勝であたりましたよね。

 

覚えてますか?1−0日大リードで迎えた大将戦。僕らはみんな、黒岩先輩のことを信じていたんですけど、あの大逆転は鳥肌ものでした。

 

━━ 懐かしい(笑)

 

あの時は本当に悔しかったよ。俺は選手じゃなくてサポートだったけど、泣いたからね。

 

神谷:決勝の相手は全国大会8連覇に挑む”王者”東海大学でした。あいつら、選手が整列した時にズラーっと並ぶメンツがエグいんですよ。

 

だけど2点先取。筑波がリードしました。後半、怒涛の追い上げで2点取り返されて、大将の僕に回って来たんです。2ー2内容も同じで。

 

相手選手には何回か勝っていて相性も良かったので、監督に「伸るか反るか勝負してきていいですか?」と直談判しました。試合は一生懸命やったけど引き分けで、代表選で永瀬さんが勝って優勝を決めました。

(※永瀬貴規選手 2016リオデジャネイロオリンピック 3位)

 

あの日見た、日本武道館の光景は忘れられないです。

 

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━━ 特別な思い出だね。

 

神谷:宝物ですね。かけがえのない財産です。

 

━━ 挫折も経験したけど充実した学生柔道を終えて、今度はいまの所属である京葉ガスに入社して社会人生活がスタート。

 

神谷:僕の柔道人生ここからが凄いんですけど、入社して2週間。世界を目指してやっていくぞ!ってところで前十字靭帯を断裂の大ケガ。

 

初めての大ケガで落ち込むことがなかった訳じゃないけど、大学時代の経験があるから復活の仕方を知っていたので、心は前向きでした。

 

レーニングをしながら体重を増やしたり、柔道が出来るようになってからは大学の先生に相談しながら技の入り方を一から作り直したり。地道にコツコツと復帰を目指しました。

 

━━ やる気満々のタイミングで前十字断裂……。焦りもあったろうに……。 

 

神谷:1年後。なんとか復帰して出場した大会で、加藤さんに勝ったんです。他の日本代表選手とも互角以上に戦えて、怪我をして1年棒にふったけど、まだまだ俺はやれるぞって気持ちでした。強い選手に勝てたことは自信になりましたね。

(※加藤博剛選手 2019全日本選手権 2位)

 

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手応えもあり、その年の実業団で優勝して強化選手を目指そうと考えていました。

 

高いモチベーションで臨んだ、実業団の大会。3回戦で黒岩先輩とあたったんですよ。学生時代、腐りかけていた自分を救ってくれたあの黒岩先輩です。先輩との試合で逆の前十字靭帯を断裂しました。

 

━━ え?

 

神谷:本当に「え?」ですよね(笑)

 

黒岩先輩も「神谷、大丈夫?大丈夫?」ってめちゃめちゃ心配してくるけど、大丈夫じゃねえわ!痛えわ!って思いながら救急車で病院に運ばれました。

 

※神谷さんは「黒岩先輩には返しても返し切れない恩があります。いまの自分があるのは先輩のおかげなんです」とインタビュー中に何度も話していました。

 

━━ いくらアスリートにケガは付き物だと言っても、これは残酷すぎる。

 

神谷:さすがにへばりましたね。ブチブチって音が聞こえた時に「ああ、俺の柔道人生終わったな」って思いました。手術室でも1人で泣いて「こんなに一生懸命やってるのにもう嫌だ」って……。

 

家族を元気にしたい。父に恩返しがしたい。そして「沖縄で柔道をしている子どもたちに元気や勇気を与えたい」と思って柔道を頑張っているけど、もう無理なのかな?

 

1年目で前十字靭帯を断裂して、ケガをしてもこれだけやれるんだよって自分が証明しようと思い続けて来たけど、それももう出来ないのかな?

 

そんなことばかりを考えていました。

 

━━ ケガをした時、駄目になるのは「体」じゃなくて「心」なんだよね。

 

神谷:やっぱり立ち直るまでにはそれなりの時間がかかりました。直ぐに切り替えるなんて出来なかった。まわりに支えられながら少しずつ復活したって感じですね。自分の足で動けるようになって体を動かせるようになって、気持ちが戻っていきました。

 

━━ うんうん。

 

神谷:何事もケガのせいにしたくなかったし、元気が戻ってきた頃には「自分の限界を他人に決められてたまるか」って思えるようになりました。

 

なにより「みんなに元気や勇気を与えたい」ってところは全くブレなかったので、それは俺がやるんだと「信念」を持って生きていこうと決心しました。リハビリ生活が終わって、復活した時の自分を楽しみに頑張ろうって気持ちです。

 

2回目の前十字靭帯断裂は1回目の断裂とは違い、もう駄目だと思った絶望を乗り越えられたことで種類のちがう自信になりました。

 

━━ 大学入学時に経験した挫折はもちろん自分の頑張りもあるけれど、まわりをきっかけに乗り越えることが出来た。社会人になって経験した挫折はどちらかと言うと逆なのかなと。自分の足で立ち上がる「覚悟」が生まれたような。

 

***

 

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━━ 快はどんな人間になりたいの?

 

神谷:しつこくなっちゃうけど「勇気や元気を与えられる人間。自分のまわりはもちろん、沖縄で柔道をしている子どもたちに夢や希望を与えられる選手」でありたいです。

 

━━ 柔道から学んだことと、今の目標を教えて。

 

神谷:学んだことは一生懸命努力することの大切さです。今やっていることが未来に繋がるから、日々の積み重ねと目の前のことを全力で楽しみながら頑張ることは大事だなと。

 

それと、人生のゴールって自分が幸せになることじゃないですか?だからあくまで柔道は自分が幸せになるためのツールの1つだと思っています。

 

それなら別に柔道じゃなくたってなんだっていい訳なんですけど、柔道を通して出会えた人たちはかけがえがないし、努力すれば結果が出る、一生懸命やっていればいいことがあると僕は柔道は教えてもらいました。

 

目標はもう一度全日本選手権に出ることです。人生3度目の全日本。

 

━━ 最後に沖縄で柔道をしている子どもたちに一言お願いします。

 

神谷:コロナ禍でやるせない気持ちになることもあるかと思います。そんな時は落ち込んだっていい。だけど、落ち込んだその先でなんとか自分を奮い立たせて欲しい。人間は落ちた分だけ、たくましく再起出来るから。

 

現状を受け入れて、そこで1つ頑張れるかが大切だと思います。明るい未来を信じています。

 

小学生のみなさんはいっぱい遊んでいろんな経験をして、柔道は楽しいと思ってもらえたら嬉しいです!

 

━━ それでは、このへんで終わりたいと思います。神谷さん今日はありがとうございました。

 

神谷:ありがとうございました!!

 

***

 

エネルギーに満ち溢れた人と話すのは眩しすぎるが故に、逆に疲れると思っている節があったのですが、そんなことなどなく、こっちまで元気になりました。

 

神谷さんの「表の顔」は”元気”とか”パワフル”のイメージが強いんだけど、それはただの明るい人という訳ではなくて、人の痛みが分かるからこその強さであり、優しさなんです。

 

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僕は快と同年代で切磋琢磨出来てよかったと本当に思うよ。これからもお互いの信念に向かって頑張っていきましょう!!

 

Text by 平良賢人 @taiken0422

 

 

今回取材させてもらった神谷選手のSNSはこちら。快、ありがとうございました!

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